高山 恵子(たかやま けいこ)
NPO法人えじそんくらぶ代表
- ハーティック研究所所長。NPO法人えじそんくらぶ代表。臨床心理士、薬剤師。
- 玉川大学大学院教育学部非常勤講師。昭和大学薬学部兼任講師。
- 昭和大学薬学部卒業後、約10年間学習塾を経営。
- アメリカトリニティー大学大学院修士課程修了(幼児・児童教育、特殊教育専攻)、同大学院ガイダンスカウンセリング修士課程修了。
- 児童養護施設、保健所での発達相談やサポート校での巡回指導で臨床に携わる。
- AD/HD等高機能発達障害のある人のカウンセリングと教育を中心に、ストレスマネジメント講座等、大学関係者、支援者、企業などを対象としたセミナー講師としても活躍中。また、中央教育審議会専門委員や厚生労働省、内閣府などの委員を歴任。
- これまでの経験を生かし、ハーティック研究所を設立。
私の番号がない!私は呆然として、その場に立ちつくしました…。
私の最初の挫折は、高校受験です。校内ではそこそこ成績もよく、女子で全校一番をとったことも何度かあったのに、私だけ落ちたというショッキングな出来事でした。
その後も理解力はそこそこあるのに、なぜかテストで点をとれないということで苦しみました。高校・大学では、内容が難しくなるにつれて集中力が続かなくなり、ノートをとるという基本的なことさえ非常に苦手で、そんな自分に嫌気がさしていました。
試験という試験には、ことごとく落ちています。今まで高校、大学、大学院とトライしましたが、すべて第一希望ではありませんでした。そのため、常に劣等感と隣り合わせの人生を送っていました。
大学は薬学部だったため、体の部位や薬品名などたくさん暗記することがありましたが、私は暗記が苦手で勉強に集中できず、成績も下がる一方で、自尊心がズタズタになりました。特に実習指示書通りに実習がうまくいかず、いつもクラスメイトのほとんどが実習を終了した後も、居残って再実験をしていました。友だちに、「私はおっちょこちょいだから、薬剤師にならない方がいいかもしれない」と言ったら、みんな「そうね」といって、誰一人として「そんなことないよ」と言ってくれる人はいませんでした。それくらい日常生活で支障をきたすおっちょこちょいだったのです。
その後、製薬会社の研究所に勤めましたが、母ががんになったこともあり、また、毎日試験管や薬品と向かい合う生活は自分に合っていないと感じ、1年間でやめました。その後、紆余曲折をへて、学習塾を経営しました。自分自身が面白い授業でないと集中できず、ひどいときには寝てしまっていたので、「面白い授業、意味のある授業を提供する」ということを実践した結果、最初は2名だった生徒さんが口コミのみで100名以上になる人気ある塾になりました。その後、しっかり教育学の基本を学びたいと思い、アメリカの大学院に留学することにしたのです。
挫折こそ次へのステップの原動力
今考えると、様々な挫折があったことこそが、アメリカの大学院に留学するきっかけになったと思います。スムーズにいきたい高校に入学して、大学や会社でもうまくやっていたら、あえて留学するという困難な道は選ばなかったかもしれません。
最近、『ありのままの自分で人生を変える挫折を生かす心理学』、『実践!ストレスマネジメントの心理学』という本を書きましたが、この2冊の本の特徴は、「挫折や失敗がジャンピングボードになり、人生に大きな飛躍をもたらす」いう理念に基づき、そのためのノウハウを紹介していることです。ご興味があれば、ぜひご覧ください。
私の人生には本当に多くの挫折がありましたが、そのたびに、自分の中に眠っていた色々な能力が引き出されていくのを感じています。私たちはショッキングな出来事がないと、古い価値観や行動パターンを変えることができないのです。ですから、挫折こそが成長のチャンスと言えます。
日米の教育の違いに驚嘆!能力開花!!そして「ADHD」 に出会う!!!
さて、アメリカの大学院ではたくさんのカルチャーショックがありましたが、やはり一番大きかったのは、日本の教育との違いです。
たとえば、日本では質問をするということは、分からない、頭が悪いというマイナスのイメージですが、アメリカでは「いい質問は、積極的に授業に参加していると自分をアピールする役割もある」というように、大きな差を感じました。日本ではおしゃべりで、いつも注意されていた私でしたが、アメリカではプレゼンテーションが重視され、たくさんのプレゼンテーションの機会があったので、アメリカの教育でプレゼン能力が一気に開花した感じがしました。
さらに、「ADHD(注意欠陥多動性障害)」と「LD(学習障害)」という概念に出会い、自分がそれを持っているということ、そのために今までたくさんのケアレスミスがあったことを知り、そして大切なときに集中できなかった謎が解けたのです。そこで、自分を知るという意味もあり、ADHDの研究に没頭しました。
そのとき出会ったのが、“Putting on the brakes”(ブレーキをかけよう)※という本です。※2015年、明石書店より再販予定
ADHDがあることを知らずに、自分はダメだと自信喪失している子どもと、そういう子の子育てで悩んでいる親たちのために、ぜひともこの本を日本で出版したいと思いました。
出版界のことを何も分からないまま、版権を持っている会社が、通っている大学院のあるワシントンD.C.地区にあるということを知り、版権をもらいに無謀にも一人で担当者に会いにいきました。そこで私は、次のように思いを熱く語りました。
版権を求めて出版社と単独交渉
「日本ではまだADHDに関する本がほとんどなく、知名度も極端に低く、文部科学省も厚生労働省も知らない状態で、多くの親子や学校の先生が苦労しています。私も成人でアメリカに留学してから初めてADHDを知り、自分にはADHDがある!と分かり、今まで上手くいかなかった謎が解けました。だからこの本を、ぜひとも日本に紹介したいんです。
色々調べると、日本の児童精神科医の田中康夫先生がこの本を出版したいと思い、出版社にかけあったけれども、売れないからと断られたと聞いています。私は自費出版でもぜひ出版したいと思っています。版権をいただけたら、自分で講座も提供し、日本中の人々に広めたいと思います。ですから私に版権をください!」
自然とそんな言葉が出てきて、自分でもびっくりしました。後から知りましたが、通常、版権はエージェントを通して出版社がとるもので、なかなか個人に譲ることはないそうです。いかに無謀で常識外のことをやったのか、後になって分かりました。
このとき学んだのは、私利私欲のためでなく、「私たち親子のようにADHDということを知らずに苦労する人を減らしたい」のような純粋な思いがあれば、物事は実現するということです。この思いがアメリカの出版社の担当者の心を動かしたことは、奇跡的だと思います。
日本の習慣も大切に、信頼関係を構築
その後、日本に帰国し、東京都の児童養護施設に就職しました。特急が1時間に1本も止まらない都心から離れた地域だったので、「アメリカ留学帰りの人」という感じで、職場の方との距離感を強く感じました。そこで、私は率先して「お茶くみ」をやりました。埼玉の茶所で育ち、家族でよくお茶を飲んでいたので、おいしいお茶を皆さんに飲んで頂きたいと思って、自ら主体的にやったのはとてもよかったと思います。私自身がおっちょこちょいですので、どこでもサポートしてもらう必要がありました。「出る杭は打たれる」というのが日本の考え方ですので、「お茶くみは新人がすべきこと」という基本的な日本社会のルールを守り、皆さんが大切にしている習慣に合わせることも大切。そう考え、意識的にやりました。
その後、“Putting on the brakes”(ブレーキをかけよう)の版権を受け取るには株式会社でなければならないと知り、この本を出版したくて株式会社を設立しました。もともと父親が起業し、株式会社の創業者だったので、自分もいつかは自分の株式会社が欲しいと漠然と思っていました。このとき、今までことごとく私のやることに反対していた父が、「会社、作ったらいいんじゃない」と何の反対もなかったことが大変印象的でした。
めでたく「ブレーキをかけよう」を自費出版することができ、ADHDの啓発活動を開始しました。教育委員会とご一緒に仕事をするために株式会社からNPO法人に変え、全国から少しずつ講演の依頼が来ていてある日、文部科学省から電話がかかってきました。
「これから日本でもADHDのある子の支援を、学校現場でもスタートしたいと思っています。ぜひお話を聞かせてください」ということで、当時の調査官と面会することになりました。生まれて初めて文部科学省の建物の中に入り、アメリカでのADHDの支援などに関して色々お答えしました。
文科省ではアメリカ式に自分をアピール
私は、「今まで何度か教育関係者にお話をさせていただく機会がありましたが、今の私には肩書が何もなく、アメリカで最新の教育学と心理学を学んだものの、出身大学は薬学なので日本の教育と心理学の分野の先生方とつながりがありません。私は現場の皆さんが本当に知りたいと思っている情報をたくさん持っていて、それを分かりやすく話せる自信があります。ですから、何か肩書をいただけないでしょうか?」と言いました。
留学前の私であれば、こんなことを初対面の人に言うことは考えられませんでした。ですが、アメリカ社会で「チャンスは自分でつかむ」「自分の信じることのために実力をつけ、その実力は自分でアピールする」という考え方を身につけたからこそ、できた発言だと思います。
その後、何と中央教育審議会の委員に抜擢してくださいました。この肩書きの威力は素晴らしく、日本はやはり肩書社会なのだと痛感しました。私自身は肩書があってもなくても同じ存在であり、話す内容も肩書で変わるということはありませんが、講演会などで司会者の方が「中央教育審議会委員」と一言言っただけで、教育関係者、特に校長先生など管理職や教育委員会の指導主事などの方々の聞く姿勢が変わるということを目の当たりにしました。私はADHDを多くの方に知ってもらいたい、それだけを目標に活動をし、特に肩書が欲しいわけではありませんでしたので、複雑な思いがありました。
「あなたにだけできる何かがある」このメッセージを全ての人に贈りたい!
考えてみると、私は大変ラッキーだったと思います。その後、NHKの番組審議委員や内閣府の委員にも選んで頂いたのですが、その理由の1つが「女性である」ということでした。小さいころからやりたいことができず、制限が多く、女性に生まれて損したと思っていましたが、時代は急速に変化しているということを痛感しました。女性雇用機会均等法ができてからは、女性を意識的に起用するという機会が増えました。それは、諸先輩方々のご尽力のおかげだと思います。内閣府の委員としては、内閣総理大臣の前で直接ADHDの理解と支援が日本社会では遅れているということを訴えることができて、本当にこの機会を与えられたことを、心から感謝しました。
ずっとADHDの支援に関わっている中で、親子関係や自尊感情(セルフエスティーム)、QOLなどの大切なキーワードがクローズアップされてきました。そして、ADHDの支援法は「ユニバーサルデザイン」として、発達障害のある人だけではなく、全ての人たちのQOLを高めることにつながると感じ、新たに「ハーティック研究所」を2014年に設立しました。
私が大切にしている言葉は、“There is something only you can do!”(あなたにだけできる何かがある)です。「ADHD」の支援はNPO法人えじそんくらぶを中心に、「障害」という言葉にとらわれない、自己理解をキーワードに個人の個性の開花のサポートやそのような社会環境づくりを、ハーティック研究所でやっていきたいと考えています。
私はたくさんの失敗があり、ADHDとLDの障害があるということも分かりました。だからこそ、同様のことで悩み、「自分はダメ人間だ」と思いこんでいる方々が能力を発揮でき、「人生は素晴らしい!」と思えるような社会づくりに寄与したいと思います。