奥津 眞里(おくつ まり)

心理学研究者 大学講師

奥津 眞里
  • 心理学研究者。東京生まれ。団塊の世代
  • 労働者の就職支援と女性の職場進出を応援する行政機関で職業人生をスタート
  • 仕事の中で得た問題意識を大切にしながら、労働政策研究者にキャリア・チェンジ。そして、実務経験と研究成果を踏まえて、現在は、カウンセリング心理学とキャリア理論に立脚したキャリア相談の実践へと活動の場を密かに拡大中
  • 大学講師

職業人生の早期のイベントと事件 - こんな時、私の場合は

いつの間にか職業人生が45年を超えた。あっという間という気もするが、山あり谷ありの道をはるばる辿ってきたと思う。大学を卒業して就職したばかりの頃、職場で隣接した席に目立たなく座っていた勤続20年弱という女性が、新参者が職場に馴染むようにとの親心からであろうか、「学校を卒業するまでは長いけれど、就職するとあっという間に時間は過ぎるわ。最初の10年なんて、すぐよ」と言い聞かすように、諭すように言われたことが思い出される。
だが、「過ぎてしまえば、あっという間の期間」は、職業経験が少ないだけに知恵もなく、また、結婚や子育てなどの人生のイベントも重なるなどして、職業キャリア形成の上からは乗り越えにくい大変な時期でもある。そこで、私の「あっという間」の時期にあったいくつかの出来事と、それに当事者としてどのように対処したかを、ここに書かせていただこうと思った。なぜなら、勤務年数が長くなり、仕事の実績を積むほどに周囲との関係は複雑になり、対処の局面は厳しくなるが、若い時の体験から心の底に固めていった働き方の態度が、その後の私をずっと支えてきたと感じているからである。働き方の態度、つまり生きる姿勢が固まっていった経過について、決して高尚ではない出来事の体験談を、恥を忍んで打ち明ければ、今、当面の職業生活に不安や疑問を感じている若い方々を、少しは元気づけることに役立つのではないであろうか。とくに、これから社会進出しようという方々や就職したばかりといった方々が、これから出会う人生のドラマにどのように向き合えばよいかと悩む時に対処方法を見つける際の小さなヒントになるかもしれない。そんな思いで “こんな時、私の場合は”と、恥ずかしながら開示したい。

就職2年目に、衝撃的な部署へ―ハラスメントにもその時代が反映される?

1971年4月に労働行政を所管する中央官庁に就職が決まった。最初の年は研修感覚で地方勤務。翌年、本省へ転勤となり、女性職員の割合が男性よりもずっと多い局に移る。そこは省内では大奥とか、女寄せ場とかいわれていたとかだが、トップはもちろん、管理職も重要なポストを女性が占めており、当時としては珍しい職場だった。
大奥とか、女寄せ場という形容から、すぐに読者は感じ取られるものがあるであろう。実際、人事異動が少なく、古くからそこにいる人々が多くおり、新参者が受け入れてもらうのはなかなか大変だった。当時は、まだ、“ハラスメント”の言葉は一般社会になかった。転勤先の部署では、新たに転入してきた者などの新参者へのイジメは、“横行している”というか、誰にもそんなことあるさ、という程度までにあった。なかでも特に声が大きく率直ないじめ行動をとることで名高い方が転勤先の課にいられた。つまり、“お局様”である。その方の下では過去に何人もの新入職員が退職したという噂があった。私も転勤してきたその日から、強烈な洗礼を浴びた。その上、数日後に実感したが、“お局様”の陰に“小お局様”もいた。
その頃は、戦後26年ほどで、戦前の社会制度の余波が職場にあった。戦前は女性に大学入学が認められなかったので、戦後に女性問題を扱う部局として創設された転勤先の職場には生まれた時期が早かったから大卒になれなかったとおっしゃる女性が集まっていられた。その方々は、当時40歳代半ばから50歳代になっていられ、本来ならば分別盛りのベテランとして後輩の育成力が期待される立場にあった。

さて、転勤したその日から、私が職場で突きつけられた言葉には時代背景や職場の特徴を映した毒針の刺激があった。「時代が許さなかっただけ。本当は今なら私だって大卒よ。公務員試験だって制度がなかったからで、本当は、あなたの上級職甲種(<注>その後のⅠ種、現在の総合職)なんてメじゃないの。それに法律職なら後で出世されて怖いけど、(あなたのような)心理職なんてどうでもいい人達なの。わかった!」、「『さっき課長に挨拶した後、次に男の課長補佐に挨拶していた。こちらが先なのに、礼儀知らずだ』と、あの課長補佐(=お局様)が課長に報告されていたので、注意します!」等々だった。
その後も、“おはようございます”の語尾が自分に向けては“ございます”が小声だったとか、自分の来客に、お茶を持ってきた時には嫌々の顔をしていた・・・とか、毎日お言葉をいただいた。しかも課内全体に聞こえる音量だった。重い気分で出勤することも多かったが、私は変に真面目でどこか鈍感さがあり、仕事にはとにかく行くもの、とにかく自分は悪くないのだから、いつかなんとかなるはず、と、休暇もほとんどとらずに出勤した。そして次々と受ける不本意なご注意を忘れないために、出来事を人目に付かぬように記録する習慣ができた。この習慣は貴重な身についた貴重な宝である。
今はハラスメント防止策の一つに、人前で叱責してはいけないというのがある。恥をかかせないという意味では、そうであろうが、あの頃のイジメは職場の人間関係というよりも、なんとなく嫁姑関係のような感じがあり、陰でこっそりやられるよりも人前での方がずっと良かったように思う。
ともかくそんな日々が続いて数カ月、ある日、昼休み時間に廊下で隣の課の男性中堅職員に、声をかけられた。小さな声だったが助言だった。今でもその時の光景が目に浮かぶ。助言は、① 大変な職場と思っているだろうけれど、実社会だからと思うこと、② 実社会に出れば、人が10人いたら、そのうち3人は敵、4人は味方に決してならない人、2人は状況次第で敵にも味方にもなる人、1人はこちらを理解する人だ。だから、味方になる可能性がある3人を見分けて大切にするのがよい、というものだった。
同じ頃、休憩時間の準備のために給湯室でポットにお湯を入れていると(当時はそういうことも要求された)、ソソッと同年代の女性が近寄ってきた。同じ局内だが、前記の男性とは別の課の方で「ネ、大変なとこでしょ。でも、私なんか高卒で初級職なので、ずっと、いびられてるよ。子供が生まれる前のお腹が大きい時に重いもの運ばされたりして。でも、見えない場所で重いからって運ぶのを代わってくれた人がいたよ。変な人ばかりだったら組織は潰れちゃうよ。変じゃない人の方が多いから、頑張りなよ。だって、ここは仕事するところだもの。仕事できればいいんだから」と言ってくれた。
“ああ、何人もの人が見ていてくれている”と素直に感じた。また、いずれも、社会の真相を早めに知ったと思うようにとの助言だと理解した。それから2年が経過するうちには、課内の数人に人事異動があり、私も他の課に配置換えになった。取り敢えずは、舞台風景が変わり、それまでの悩みは休止した。
もちろん、その後の長い職業生活では、もっと過酷な問題に出会った。しかし、いつも誰かが私の動きをみていてくれたと思う。それは、この時と共通する。困難を乗り越えて筋を通した時、処世術としては拙く、損な結果はいつものことだが、その姿勢を評価してくれていた人々がいたのも、ほぼいつもだった。

結婚から子育て

さて、新しい課に配置換されてから約半年後に結婚した。結婚の予定を届け出た時のこと、前の課でお仕えした課長がお呼びだという。問題を残すような仕事はしなかったはずだが、といぶかりつつ急行すると、その元上司がニコニコ顔で言われた。「結婚するんだって?結婚しても女の人だからって、仕事は辞めない方がいいよ。僕は経済が専門だから言うけれど、健康さえ大丈夫なら、ずっと働いていた方が人生全体で絶対にトク。年金や(医療)保険でも自分のものがあるっていうのは、金額の問題ではなく、絶対にトクなんだよ。家庭経済の安全保障面でも経済効果は金額の次元を超える効果だし、結婚しても辞めない方がいい」と、課内に響き渡る声で言われた。
この課長は、その後、昇進されてから退職し、経済学で教鞭をとる大学教授に転身されたが、当時から省内で屈指の労働経済の専門家であった。お局様や小お局様のいじめシャワーを浴びていた時には、何もしてくれない上司だと思っていたが、この時、そうはいっても私のことをしっかり見ていてくれていたのかと、ありがたく思った。そして、キャリア選択については、“そうかア”と、いままで気づいていなかった人生後半までを視野に入れた新たな観点をボンヤリだが意識した。
結婚すると、妊娠・出産・育児への対処がすぐに必要になった。当時は、一般にゼロ歳児は無認可保育所か個人に頼むものと覚悟する時代で、子を預ける準備はなかなか大変だった。職場の何人もの人々から早く手当をするようにと心配されたり、助言されたりしていた。
そうこうしているうちに産前休暇に入る数週間前になった。その時、以前、給湯室で「ずっと、いびられてるよ」といった女性が昼休みに私の席にやってきた。子を認可保育園に入れるまでの自分の体験を教えにきたとのことだった。その体験談は、子が生まれる前から、公立や認可された保育園の門前や入口付近に、毎日、朝と夕方の通園時間に立って、子を送迎する父母に「今度、子が生まれるので預け先を探しているが、どうされていましたか」と声をかけたという。無視されることもあったし、適当にあしらわれることも多かったが、中には、「親切な人が必ずいて」、役立つ情報を提供してくれたという。そして、「なんとかなるよっていうか、なんとかしなよ」といって去った。私の心の中に言葉にならない小さな感動があった。
幸いにも、職場の子育て経験のある女性が、早くから保育環境が比較的整った地域への引っ越しを勧めて具体的な情報提供もしてくれたし、転居先の区役所の担当者が上手に貴重なアドバイスをしてくれたので、最初は無認可だが良質な保育施設に入れてもらえた。そのおかげで、私はそこまでの苦労はせずに済んだ。本当に「なんとかなった」。
それは、結局は周囲の人々からさまざまな思いやりを受けたからだ。もちろん、職場に10人いたら、そのうちの3人に当たる人達だったかもしれない。とにかく、周囲の人々からの好意には素直に感謝した。一般論ではなく、私という個人の妊娠・出産・育児について、たまたまその周囲にいたというだけで頂戴した思いやりや好意的な支援は、特定の人間関係の中でのことである。理想や期待、あるべき論とは別に、それぞれの方が職場生活の中で実際に負担を負ってくれていたから、心から感謝した。

他組織への出向では

その後、保育園の送迎と仕事にバタバタと日々をすごし、2人目の子も生まれた。ヒールの低い靴を履き、下の子を背負い、上の子の手を引いて、片手には大きなバッグと袋を持って歩くのが、地域での私の定番スタイルだった。ある日の保育園からの帰り道、いわゆる町工場の工員さんが声をかけてきた。私の様子が1人目の子が本当に小さい頃は、恐る恐る抱っこして歩いていたが、2人目を連れた今は、“いかにも、お母さんが堂々と歩いている感じ”に見えるとのこと。声の感じや顔の表情から褒め言葉と思えたし、子供たちに注ぐ視線が暖かかった。
その頃、他省への出向命令を受けた。各省庁からの出向者で構成されている職場だった。悪く言えば寄り合い所帯だが、社会現象をみる多角的な視点、複数の視点を擁する長所もあった。出身組織の違いがあれば、人それぞれの仕事への思惑の違いもあった。それに気をつかえば大変だが、もともとそういうことは不得意だったし、子育てに忙しかったこともあって、少しも気をつかわなかった。だが、そうした職場では、表面的な交流からは察し難い勤務評価が行われており、私が無頓着だっただけで実際は容易でない人間関係があったようだ。
とはいえ、一期一会の巡り合わせで職場を共にする大切な仲間という意識で勤務している人々は少なくなかった。他省庁での仕事の説明や体験談を聞くのは本当に参考になり、有名な社会的な事件等の解決について、自分の知らない取組みがあったことなども知ったし、ものの見方の多様性や多角的な視点の必要性を再確認した。仕事上だけでなく、新年会や歓送迎会などの懇親の場でも、組織によって異なる人の育て方やキャリア・パスの考え方等の情報が入ってきて面白かった。そして、どのように生き抜くかは人それぞれでしかないし、人それぞれでよいのだとボンヤリと意識した。また、さまざまな社会現象にどのような事実が潜むのか、その現象の全体像を理解することは大変難しいが、人生の迷子にならないためには、身の回りに気になる現象があれば、そこに何が潜んでいるかと問題意識をもつことが大切そうだとうっすらと気付いた。
その職場から転出する時、挨拶巡りをしていると、直属の上司ではないが、他省から来られていた目上の方が、「ご苦労さん。寄り合い所帯へ子持ちで来て、いろいろ言われて大変だったね。でも、仕事をしてれば問題ないって、言ってやったよ。絶対辞めるな。頑張れ」と周囲に聞こえる声で言ってくださった。淡々とお礼を申し上げてその場を辞したが、ありがたかった。なお、その方は、やがて検事正に昇進され業績を残されてから、退職後は公証人として一般市民の日常生活を応援された。

それからの歩き方

「あっという間」の時期の体験からボンヤリと意識したり、うっすらと気付いたりしたことは、私の働く態度の中で芽吹きのようなものだったが、その後、しっかり葉を広げていった。仕事をするには、その仕事の社会的背景や仕事の結果が社会にもたらす影響について、きちんと調べて、問題の本質を知って取り組みたいという思いである。時代が昭和から平成に変わる頃には、終身雇用の見直しと定年制引き上げに関する仕事を担当していたが、とくにその時は、高齢者雇用問題の本質を知りたいと強く感じた。すでに、年齢も中高年齢の域に達していたが、中高年齢期の人の働き方を研究するために大学院に進むことにした。
まずは、中年以降の職業発達とキャリア開発を研究して、カウンセリング学の修士号を取得。さらに、その後に失業者の再就職支援の現場に関わったことから、失業が個人の人生の危機であることを痛感して、再び大学院の博士課程に入り、再就職支援の在り方を研究。社会科学の領域で博士となった。その際、大学から文部科学省に登録申請した博士号の英語表記、Ph.d. Vocational Psychologyは日本初の登録ではないかといわれ、感無量だった。
「あっという間」の時期に、それぞれの方法で支えてくださった方々には、その後にお会いする機会がなかったり、相変わらず大きな存在として接してくださるなどで、直接のお返しができていない。そのように非力な私でも、人生で縁のある方々には、私ができる形で少しでもお役に立つようにしたいと思っている。そう思っていたら、いつの間にか職業問題だけでなく、離婚や進学のカウンセリングや話し合いに関わりを持つことになった。どのように生き抜くかは人それぞれでしかないし、人それぞれでよいのだと気付いてもらった時は心の中に小さな明かりがともる。そして、図表に辿るように、女性は社会の平和と個人の幸福のために生きるときに輝くのだと思う。