高橋 陽子(たかはしようこ)

公益社団法人日本フィランソロピー協会 理事長

高橋 陽子
  • 岡山生まれ、大阪育ち。
  • 大阪府立豊中高等学校卒、津田塾大学・学芸学部国際関係学科卒。
  • 1980年より千代田女学園高校の英語の代理教師のかたわら上智大学のカウンセリング研究所にて心理カウンセラー養成課程・研究過程修了(認定カウンセラー)、関東学院大学付属中・高校でカウンセラーとして勤務。
  • 1991年 国民政治研究会(1994 日本フィランソロピー協会と改名)に入りフィランソロピーの推進を始める。
  • 2001年 理事長就任、現在に至る。

わがままで頭でっかちなまま社会人に、そして両親に感謝

昭和25年生まれの私の干支は、五黄の寅。丙午の次に気が強い、と言われ、同年代には「和子」という名前が多いそうです。我を張らず、周囲と和して仲良くしてほしい、という願いが込められています。私もまさに干支を体現した子どもで、負けず嫌い、意地っ張り、気が強い。父は、こんな調子で大丈夫だろうか、と気をもんでいたようです。母は、そんな私を心配しながらも、いつも優しく包みながら静かに諭してくれていました。
私が人に腹を立てて、叫んでいると、いつも母は、「そんなに怒らないで。また、頭が痛くなったり、鼻血が出ますよ」。「いやだ!絶対許さない!!」「人はみんないいところがあります。その人の持ついいところを見るようにしなさい。そうすれば、その人も、自分のいいところをこちらに見せてくれるようになるから」。「そんなきれいごと言ってー!」。中学生ぐらいまでは、こんな会話がよく交わされていたのを思い出します。誰に、何に腹を立てていたのかは全く思い出せませんが。
そんな私の現在の人間観は、「人は皆、いいところを持っている。そこに着目して付き合うこと??!」。親は、自分の信念を言い続け、見せ続けていることが大事だと、つくづく思います。
岡山生まれ、大阪育ちの私は、子供のころから“インターナショナル“にあこがれて、『兼高かおる世界の旅』はいつも食い入るように見ていました。大阪府立豊中高等学校を卒業して、1969年、“職業婦人”という言葉にも魅せられ、津田塾大学・学芸学部国際関係学科に進学しました。“インターナショナル”“職業婦人”にぴったりの大学にめでたく合格し、意気揚々と同大学のキャンパス内にある寮に入り、前途洋々の大学生活が始まったはずなのですが・・・。この年は、東大の入試がなかった年。そして学生運動まっさかりの中に突入。と言っても、学生運動にのめりこむ気概もなく、毅然とノンポリを宣言する勇気もなく。いわゆるシンパという中途半端な学生生活を送っていました。専攻も国際関係であり、多少社会科学めいたことも勉強しており、卒業後は、新聞記者になりたいな、と思っていました。“インターナショナル”“職業婦人”に加え、“社会正義”が私の心の芯に加わりました。ところが・・・NHKを受けて落ちたことから、ガラガラと心が崩れました。まだまだ女性の就職は間口が狭かった時代ではありましたが、今、思えば、頭でっかちで、世間知らず。手段である大学入学が目的化していて、入学してからが努力不足。当然の帰結なのですが、精神的に自立もしていないので、誰かに頼ることでしか、自分を支えられなかったようです。そういうわけで、大学卒業前に婚約し、「まずは、家庭生活の基盤を作り、子育てをしてから社会に出ればいい」という夫の言葉を魔術のように信じ、大学卒業と同時に、何と、専業主婦生活を始めたのです。友人も私自身もびっくり。その後はしばし思考停止。あの時の自分を分析すると、未熟の一語につきますが、それはそれで、その時の自分の決断でした。内心忸怩たるものを抱えながらも、長女・長男を出産し、わが人生の中では、それなりに楽しみながら、その後の人生から考えれば、きわめて短いのどかな子育ての日々を過ごしました。

遅い社会人デビュー

私の社会人デビューは30歳の時に突然やってきました。長女も小学校に上がり、そろそろ何か始めたい、と考えていた頃、友人の紹介で、私立千代田女学園高校の英語の代理教師の話が来ました。2学期が始まっていて、即日返事がほしい、と言われたので、その日のうちに、まず夫の了解を得て、下の子供の幼稚園に延長保育を申請し、近所のママ友に、病気などの時には預かってもらえるかを確認して、3学期が終わるまで、という条件でスタートしました。結局、その後も引き続き勤務することになりました。人にものを教えることは、あまり得意ではない、と思っていましたが、私の授業はわかりやすい、と生徒たちにはそれなりの評価を得ていたようです。ただ、思春期で悩める生徒たち、勉強が苦手な生徒たちとの付き合いを重ねるうちに、英語もそれほど堪能でもない私は、彼らともう少し違った付き合い方をしたいと思うようになりました。ちょうど、大学時代の同級生が上智大学のカウンセリング研究所に通っていることを知り、心理的な関わりの方が自分には向いているように思い、受験することにしました。運よく合格し、専門カウンセラー養成過程が2年、研究過程が1年、3年間をがむしゃらに過ごして、やっと専門カウンセラーの認定試験を受けました。結局、25人の同級生中、認定を得られたのは5名でしたから、なかなかの難関だったと思います。

家庭と仕事と学生で、忙しくも充実した日々

週2回、朝、小学生の子供2人を送り出してから麹町の学校に勤務、担当は教科指導だけにしてもらっていたので、授業が終わったら一目散にたまプラーザの家に帰り、晩御飯を作ってから、また、一目散に四谷の上智大学へ、終わったらまた、一目散に自宅へ。勤め先から上智大学までは歩いても行ける距離でしたから、仕事帰りにそのまま行けたらどんなにいいか、とも思いましたが、夜の家庭教師を頼み、自分が走り回れば何とかなる、と思っていたので、脇目も振らずにこなしていました。それほど苦にはなりませんでした。実際、料理は気分を切り替えるのには非常にいい作業でした。
さて、授業ですが、座学だけでなく、ロールプレイ、ワークショップ、合宿、そしてロールプレイの会話すべてを起こして分析する宿題、また、それを叩きのめされる授業。結構厳しくて、あんな高い倍率を突破して入学したのに、脱落する人も出てきました。当時は、臨床心理士という資格もない時代でしたが、上智の資格はかなりレベルが高かった、と今でも自負しています。認定を取れたのにはいくつか理由があると思います。
一つには、仕事と両立しながら、子供にも我慢させながらの通学でしたから、何がなんでも1回で合格しなければ、という不退転の決意がありました。もう一つは、学ぶことに集中したことだと思います。この課程は、社会人しかも、教師や医師、企業や役所の管理職対象でしたから、それなりの経験と一家言ある人たちのクラスです。そのうえ、主任教授が亡くなったこともあり、途中からは、私たちの先輩で、年齢も自分たちと変わらない人が担当するようになりました。知識だけならまだしも、ロールプレイなどでは、徹底的にダメ出しをされるので、その教官のことを、「人を崖っぷちまで追い込んで、なおかつ後ろから刀で切りつけるような指導で、逃げ道を奪い非人道的」と言って批判する人たちもいました。私は、学ぶために来ているのだから、と、何度ダメ出しされても平気で、何度でもやり直し食いついていきました。カウンセリングは、自分の言葉や対応で、相手を死に追いやるかもしれない仕事。だからこそ、徹底的に自分を追い込むこと、そして、自分の弱さを知ることがプロとして不可欠であることを教えられており、私自身も、それを納得していましたし、生半可に自分を守ってはいけない、と自分に言い聞かせていました。資質としては、鈍感力+素直さが生きたように思います。

心理カウンセラーとしての仕事を通し、人間観・人生観・社会観が確立

卒業後、上智で習った先生の一人が勤務する、横浜にある関東学院大学付属中学校・高等学校でカウンセラーとして働かないか、と誘っていただき、転職することにしました。当時としては、専任のカウンセラーを常時置くこと、しかも男女一人ずつ置き、独立した建物があるということは珍しかったと思います。今でも、そこまで充実しているところは少ないのではないでしょうか。
5年ほど勤務しましたが、その過程でいくつかのことに気づきました。保護者は、主に母親が来ます。ただ、その背後にいる父親に問題があるな、と思うことがよくありました。また、子供自身との面談で実感したことは、子供は、自分で自分のことを、どうせ、僕なんか、私なんか、と思ってしまっていることが多いです。また、親との関係に問題を抱えている生徒も少なからずいます。障がいのある兄弟がいると、その子を挟んでの親子の葛藤、夫婦の軋みの中に挟まれる子もいて、なかなか一筋縄ではいかないことも多々ありました。
そうした中で、子供が輝く時、変化する時があります。それは、子供自身が、自分をわかってくれる、わかろうとしてくれる人がいることを実感した時。そして、何か人の役に立ったと実感できた時。あるいは、親の、鎧を着ていない、悩んだり苦しんでいる生の姿に接した時です。
生徒と私はクライエントとカウンセラーという関係であり、これは本来対等な関係でなければいけません。その関係づくりを面談の中で日ごろから試みましたが、釣が好きな生徒とは、時には一緒に釣りに行って、魚の釣り方を教えてもらったりもしました。この時の出来事は、私のとっても忘れることができない楽しい思い出となりました。そうして、いい関係を作ることで、子どもたちの変化を見ることができ、喜びもありましたし、やりがいをもって仕事に励んでいましたが、やはり、カウンセラーという仕事は待ちの仕事です。学校ですから、心理テストや知能テストをしたり、教師との面談を仕掛けたりはあるものの、基本的には、クライエントが話したいな、相談したいな、と思った時に応じる仕事です。もう少し、積極的に働きかけることはできないか、と思っていた1990年に、朝日新聞で「フィランソロピー」という言葉を見つけました。
「フィランソロピーが私を呼んでいる」と直感的、否、妄想的に思いました。誰も呼んでいないし、誰にも頼まれてもいない、全くの私の思い込みだったのですが・・・。企業が変わらないと学校も家庭もなかなか変われない、人は皆、自分が役に立つ存在である、人のために何かしたい、という思いがあるはずだ、というそれまでの経験から得た実感と、フィランソロピー(社会貢献)が瞬間的に結びついたのだと思います。
1991年、周囲からは、カウンセラーをやめるなんて「もったいない」、と言われました。また、臨床心理士という資格もできており、当時は、大学院に行かなくても、臨床経験があれば、資格試験を受けられた時代でした。これも、今、思えば、その資格を取ってから転職すればよかったのですが、とにかくその当時は、「思い立ったが吉日?」とばかりに、損得も何も考えず、フィランソロピーへの道に進むことばかり模索していました。

フィランソロピーの道へ

たまたま、前理事長にそういうことを相談してみたところ、彼曰く、「フィランソロピーこそ、民主主義の原点だ」。日本フィランソロピー協会の前身は、国民政治研究会(1994年に改称)と言って、1960年に、当時のジャーナリストが「公正な世論を作ることが健全な民主主義を育成することにつながる」と、不偏不党で設立した団体でした。全国各地での政治討論会や、学者・政治家・役人・ジャーナリストたちが政策研究会を開いていたようです。30年経って、時代も変わり、活動も変えなければ、あるいは、そろそろ解散しようか、というような時に、私が「フィランソロピー」を持ち込み、それが「民主主義の育成」というミッションにはまりました。「企業市民室」という1セクションを作ってもらってスタートしました。
民主主義は個人の問題なのに、なぜ、企業に着目したかというと、日本では高度経済成長の中で、企業の影響力が非常に大きかったこと。そして、カウンセラーの経験から、企業が変わらなければ、という思いからです。フィランソロピーは、個人が基本ですが、日本にまず入ってきたのは、企業フィランソロピーでした。1990年はフィランソロピー元年と言われています。経団連が1%クラブを設立し、資生堂の当時の社長・福原義春さんの呼びかけで企業メセナ協議会を設立、大阪では、サントリーの当時の社長・佐治敬三さんの肝いりで設立を決めた大阪コミュニティ財団。こうした動きが相俟って、大企業中心に社会貢献を推進する機運が高まってきました。そして、1991年、当協会も、企業の社会貢献担当者向けの定例セミナーをスタート。翌年1月には機関誌『フィランソロピー』を創刊。25年目を迎える今日も続けています。この25年の間に、阪神・淡路大震災が起こり、ボランティアが活発に動き出し、その活動の受け皿の必要性が謂われ、1998年に特定非営利活動促進法ができて、今ではNPO法人数は5万1千を超えるまでになりました。そして、景気低迷の失われた20年が続く中、世界的に、企業の不祥事が多発し、環境問題の悪化も進み、CSR(企業の社会的責任)が注目されて、企業の中でもCSRが一つの経営の柱に据えられ始めました。そして2011年の東日本大震災の発災を機に、行政依存だけではなく、民間が公益に資する働きをすることへの理解も一段と進み、自在に活動する若者が増え、またソーシャルメディアの発達と共に、支援や活動の方法も多様化してきました。

利他の心を信じて次世代を担う子どもたちのために

当協会は、当初の健全な民主主義社会の実現という使命を掲げ続け、個人の社会貢献を推進するために、企業が啓発や情報提供、きっかけづくりなどをしてほしい、という軸を一貫して持ちながら、事業を進めています。財界にも行政にも何のつてもない私は、「フィランソロピーの推進を!」と、どぶ板営業のごとく、一軒一軒各企業を回り、玉砕を繰り返しながら、議論をしたり、アドバイスをいただいたり、叱られたり。その一つひとつが私にとって大きな学びでした。そして、何とか今日まで続けてこられたのは、親身に応援してくださった方々のおかげだと、今更ながら感謝の気持ちでいっぱいです。今後は、次世代の子どもたちの健全な成長のために、境遇に恵まれず様々な困難を抱えている子どもたちを支える大人たちのネットワークを作りたいと思います。また、子どもたちの利他教育にも力を入れています。利他行動と幸福度には相関関係があるといいます。人間の利他の心を信じて、他者に思いをかけながら支え合い、それぞれの幸せを感じることができる社会をめざして、その中での、当協会の役割を見極めながら、事業を進めていきたいと思います。

こうしてこれまでを振り返ってみますと、何とも右往左往の人生を送ってきたように思います。学生時代に掲げていた理想である“インターナショナルな人生”とは程遠い人生になってしまい、それは少々残念です。ただ、限界はあるものの、これからは、Glocalな時代。自分なりに、できることもあるかもしれない、と思えるようになりました。一応、あこがれていた“職業婦人”の端くれになり、社会活動らしきことにも関わっているので、一本の道をきっぱりカッコよくは進めませんでしたが、人間の嗜好と志向は、職業や立場などが変わっても、意外と変わらないのか、と自身を振り返ってみて思います。心理カウンセラーとしての経験も、意図したわけではありませんが、今の仕事に生きています。カウンセリングの仕事には3つのCがあります。面談そのものを指すCounselingだけでなく、Coordination 、Consultationです。フィランソロピーの推進事業にも不可欠な要素です。また、現実の人生は、挫折や不運が重なり、思うようにならないことも多いですが、それでも、どんな体験や苦労も、必ず生きてくるし、それを自分だけでなく、人のために生かすことで、人生の面白みと意味も膨らむのでは、という思いが、年と共に増してきました。また、「人のいいところを見る」という人間観も、なかなか母のようにはいかないですが、私の大切な軸になっています。今後は、感謝・根気・ユーモアを忘れずに、いい出会いを大切に、その輪を少しでも拡げていきたいと思っています。