田中 彩(たなか あや)

NPO法人ママワーク研究所理事長

田中 彩

中央大学法学部卒業。ベンチャー企業で総務部長をしていたが、出産を機にリタイア。
産後の社会復帰挫折経験を経て、「子育てしながら、自分らしく働きたい」ママ達をサポートすべく、福岡を拠点にNPO法人ママワーク研究所を設立。
ママ向けスクールや企業向けコンサルティング、企業とママ人材が出会う「ママ☆ドラフト会議®」等を展開している。
注目テーマは「キャリアのV字回復」。
福岡県子育て会議委員等を務め、社会保険労務士でもある。2児の母。


幼少期の家族

団塊ジュニア世代の私は、その世代の典型的家族構成の中で育ちました。二人兄妹。父は会社勤めのサラリーマン、母は短大卒業後、会社に勤めるも結婚退職した専業主婦。社宅住まいの小学校低学年まで、周りにはたくさんの同世代の子ども達。母は手作りのおやつで子どもたちをもてなしてくれ、役員を務める子ども会やPTAといった地域活動で忙しくも充実の子育て環境を作ってくれていました。
当時としては幸運だったことに、父が3勤交替で勤務時間の区切りがしっかりした職場だったため、夜勤以外は自宅で家族で過ごす時間が多く持てました。多趣味な人で、野草の盆栽、陶芸、語学、自転車、ヨット様々に時間を作っては趣味を続けていました。私ももれなくその傍らで遊ぶので、陶芸でボタンを作ったり、語学が好きだったり、今でもいろんなものに興味が湧きます。
また、佐賀県の唐津市という日本海に面した街で育ったのですが、天守閣が残っており、海外からの旅行客も折々見かける街でした。語学が得意な父は、観光地で話しかけられるとすぐに家に招いて、食卓を囲むので、家の中に家族以外がいるのは日常でした。私が寮生活に入った高校時代には、陶芸家を目指すアメリカ人女性が我が家に住み込んでもいました。玄関に鍵がかかるのは、長期旅行中だけ。私の「いつでも誰でもwelcome」な性格は、そんなところから来ているのかもしれません。

高校・大学時代

高校時代は寮生活で、外出時間も30分と限られていたため、勉強中心。先輩と同室なので、共同生活のルールを習得し、やるべきことをやった3年間でした。そのまま東京の大学へと進学します。大学では、あまり勉強には熱心ではなく、サークル活動を中心とした日々。国際交流と企業に学生インターンを送る活動がメイン。ドイツの学生会議に参加したり、インドで学生インターンとして2か月勤務した経験も。
見た目はおっとりしていますが、交流&行動する姿勢はこの頃に身に着いた気がしています。

一度目の社会人時代

大学卒業後は、福岡に戻り、出版社の営業職に就きます。採用決定時は、事務所内の「内勤」で配属されたにも関わらず、「営業がしたい」と上司に交渉。営業部門へ。地方自治体の住民調査や計画策定のコンサルティングが商品でしたので、各地の行政窓口を訪問したことは今でも記憶に残っています。その後転職をして、保健福祉分野のベンチャー企業で総務スタッフとしての新しい仕事に就きます。
分野外で自信がなかったのですが、「寄り道をしたと思ってきてくれないか?」との女性経営者から声を掛けてもらい、入職を決めました。ベンチャー企業ですから、営業部署は必死です。日々努力して売り上げをあげてきます。総務部門は、どうしても費用を使ってしまう部門というのが通常です。考えた末に、新たに仕事を作りました。ベンチャー支援の流れを受けて始まっていた、県や国からの助成金を活用する担当です。とても大変でしたが、成長分野ベンチャーでの新規採用やモデル研究についての助成を得ることができ、「売上にも貢献する総務」として評価を得ました。まだ20代後半でしたが、入社から1年もたたないうちに「総務部長」の職を任せてもらうことになりました。急拡大中の組織ですから、就労規則も0から作成したり、賞与支給に向けて人事評価システムを企画実施したり、新採用スタッフの研修講座を行ったり、はたまた社会福祉法人を設立したりとかなり業務スキルの幅が広がりました。

総務部長時代に、実は結婚もしました。学生時代に知り合った相手は、東京暮らし。私は佐賀でした。仕事がとてもやりがいがあったのと、ベンチャーとしてIPO(上場)を目指していることもあり、「仕事を続けたい」とパートナーの両親にも相談をして、別居婚というスタイルを選びました。
ただ、転機が来たのは「妊娠」でした。長女が宿ったと分かった時、やっぱり子育ては家族一緒にしたい(すべき)との想いが芽生え、出産直前に退職という道を選びました。子育てをする専業主婦は、私の母のように幸せなはず、という淡い期待もありましたし。

専業主婦へ

東京で、乳呑児を抱えた専業主婦時代を迎えます。子どもは可愛いんです。新しくできたママ友との茶話会も楽しい。ですが、何か物足りない。しばらくして分かりました。子育てで得られることと、社会人として「働く」ことで得られることは違うんです。子どもの笑顔を見る至福の瞬間と、責任をもって任せられた仕事をやり遂げた時の達成感は、世界が別なんです。
丁度長女が生まれた2003年は、次世代育成支援対策推進法が成立した年でもあります。「子育てしながら働きやすい社会が来る」そんな想いで法の施行記念セミナーに娘も連れて参加しました。でも、そこで話されていたのは、「企業の中で、結婚し、出産していく女性達が辞めずに続けられるようにどんなサポートができるか」ということ。一度やめた私のような女性は、法がサポートしてくれる対象ですらないのだと…。その時に感じた「疎外感」は衝撃でした。社会復帰への焦りも高まり、資格試験に取組む火が付きました。長女が寝ている間を学び時間にあて、秘書検定1級、簿記2級、産業カウンセラーなどを取得しました。スムーズにいかないものももちろんあり、3度目の試験で合格、というものも含めてチャレンジしました。

再就職挫折

資格取得勉強と並行しているのですが、知人が経営する会社を子連れで訪問したところ、「良かったら、仕事を手伝ってほしい!」と言われ、短時間のパートタイムをすることになりました。勤務時間は朝の10:30~16:00でラッシュにもかからない時間。
ですが、その前後に片道2時間の通勤。かつ夫も深夜帰りが毎日の仕事だったので、家事・育児も全て私がしなくては!という責任感で120%の力で過ごしていたら、10カ月後に起き上がれない状況になってしまいました…。
肩から首にかけての筋が炎症を起こして、動かそうとすると極度の痛み。2日ばかり寝たきりだったでしょうか。これでは、子どものお世話すらできない、十分に仕事で貢献することもできない、と「辞表」を提出することになったのでした。
仕事と育児の両立の困難さを、身を持って知った半年間でした。

2度目の専業主婦

もう一度戻った専業主婦生活ですが、体調が元に戻ったころ、第2子に恵まれました。酷いつわりで3か月ほど寝込んでいたと思ったら、その後の健診で「切迫早産」を診断されます。「いつ生まれてもおかしくない」と即日大学病院への入院が決まり、3歳の長女は福岡の実家へ。可愛い盛りの長女と別れての入院生活は、とても精神的に辛いものでした。
お腹が張るといけないので(=子どもが生まれてしまうので)、筋力を緩めるための点滴を24時間受けながら、基本寝たきりです。
また、7人部屋だったのですが、ある日起きてみるとお一人が破水して、NICUに移動していました。同郷で同月の出産予定日だったのでとても衝撃でした。入院したのは、妊娠7か月の頃。「下の子は、早く生まれてくる運命なんだな」と「早産についてのQ&A」等専門書を読んでは、NICUでの日々の授乳や障害が残る可能性を慮って、泣いてばかりいました。

ですが幸運なことに、医療スタッフの皆様や家族の力添えで下の子が頑張ってくれ、お腹の中で臨月を迎えることができたのです。退院した5月の青空が輝いていたこと。その美しさは今でもくっきり残っています。健康に子どもが生まれて来てくれたことへの「感謝」の気持ちは大きく私を包み、「通常の子育て以外の時間は、お礼の気持ちを行動する人になろう」と決意しました。それから1カ月後には、もうボランティアを始めていました。
「できることをできる形で」と関わってきたボランティアですが、2008年には福岡で母親支援のサークルを主催するようになります。「自分のことは二の次になる子育て期だからこそ、心も体も健康なママでいられる時間を」と子どもの預かり合いをしながらバランスボール体操をする会をスタートしたのです。「バランス・ママン」と言います。

201名のママアンケート

バランス・ママンの活動の中で、次に取り組んだのが「心のバランス」です。どうやら出産等を機に一度リタイアしたのに、「もう一度働きたい」と思っている人が多い。「働きたい気持ち」の理想と現実を調査したいとアンケートを実施することにしました。いろんなママ・ボランティアの力を借りて、201名の方から回答を頂きました。すると、5年から10年社会人として働いてきて、後輩の指導や様々なプロジェクトで経験を積んだ女性達が、パートナーの転勤や両立環境が整っていないためにリタイアを選択し、「いづれ働きたい」と思いつつも子育ての制約があるために「具体的な求職に踏み出せていない」という状況が分かりました。その中の1回答は、用紙の角が破れ、しわが入っていました。コメント欄には「子どもが遊んで破ってしまいすみません。」とはじまり、仕事についての想いが何行にも渡っていました。それを見た時に、こんなに大変な中なのにアンケートに向かってくれたママの真剣な気持ちを改めて感じずにはいられませんでした。その201名分の想いを直接受け取ったものとしてのアクションが始まります。

NPO法人設立

2011年、ママ達の「子育ても大切にしながら、社会人としての自分も大切にしたい」という想いをもっと多くの方に知って頂きたい、と講演会を企画しました。小さな団体なのに、大ホールを予約して。いろんな方にチラシをお渡ししては、広報協力頂きました。
そのチラシを見て「同じ考えの人がいる」と紹介されたのが、現在副理事長をしてくれている阿部博美です。彼女の呼びかけで、もう一人共感者が現れました。現在理事の中山です。この3人で初めて会った時のワクワク感。互いに専門が違うので、「まずはメールマガジンを発行しようか」「じゃ、私がブログを開設するね」。会うたびに新しい企画が生まれ、分担して実行する、とてもフラットに協力できる仲間に出会うことができました。丁度内閣府が「社会起業家」のためのビジネスプランコンペティションを開催していました。3人で知恵を絞ったプランが、なんとファイナルまで残り、250万円のスタート資金を得ることができました。(こちらも2度目のプレゼンで、ようやくでしたが…)
元は専業主婦ですから、投資できるお金はありませんでした。どんなにありがたかったことか。団体紹介のリーフレットやホームページ制作や視察の交通費等、このお蔭でNPO法人の設立準備が進められました。2012年7月20日、NPO法人ママワーク研究所設立です!

幸運なことに、設立から1か月後には「働きたいママのフェスタ」を開催。来場者数は3000名を超えました。設立メンバーの得意を持ち寄った成果の第1号です。それからメールマガジンの発行やママのためのスクール開講、小さく働く就労トライアル「ママオフィス」次々とアイディアを出しては、実行し、反省して改善しながら進めてきました。
早や、5年目を迎えます。PDCAを続けて、ようやく出てきた「私たちだからこそできる社会復帰支援」はこれだ、というのが「ママ・ドラフト会議®」そして「ママ・ボランチ®育成事業」の2つの事業です。

「ママ・ドラフト会議®」

能力あるママ達がどうしたら企業の中で必要とされるのか、経営者ヒアリングをしたところ、実は接点がないということが分かりました。「求職活動」を具体的にしていないので、ハローワークに求人票を出しても、情報が届かないのです。だったら出会いの場を創ろう、ということで始めました。一言でいうと、「働きたいママ」にスポットライトを当てる、スピーチコンテストです。公募するママ達はブランク等で自信を無くしている傾向が強いので、その強みを見出し、企業に伝えるためのトレーニングを事前提供。その上で「これまでの社会人経験」「子育てや地域活動で身に付けたスキル」「希望する働き方」をスピーチ。
観客席には、企業経営者、人事担当者が審査員として参加。スピーチを聞いて「社会人としての魅力」を感じたら、手元の「いいね!」プラカードを掲げて、その数でグランプリを決定する、というイベントです。「私なんて」と話していたママが、「私の強みは…」と堂々とスピーチ。聞いている企業は、「こんな人材が働けていないなんて…」とその魅力に気づく。ママも企業も変えていくための取組です。ママ友からではなく、企業からたくさんの「いいね!」と評価してもらった時の登壇者たちの表情は、本当に輝いています。そして自信を持って再出発していきます。中には新事業の責任者として来てくれないかと企業からオファーがあることも。控えめが美徳とされがちな日本女性ですが、自分から発信していくことの大切さを実感しています。

「ママ・ボランチ®育成事業」

「いづれ働きたい」ママ達の以前のキャリアは、総務や人事、経理などのバックオフィス部門が多いんです。そのスキルをもう一度活かせないかと企画したのがこの事業です。
高度成長期の「作れば売れる」時代は終わり、創意工夫の時代。各地で創業支援の波が押し寄せています。起業家のヒアリングをしていると、実は「自発的な総務や庶務ができる人はいないかな?」と探していることが分かりました。前述のママ達が、スタートアップならではの「自律的」で「広範囲」なバックオフィスができるようになると、必要とされる人材になるのではないか、と。

こちらも偶然、NPO法人が応募できる国のモデル事業情報を教えて頂き、提案後無事採択されて2015年にモデル事業としてスタートすることができました。経営者のニーズ調査、そしてママ人材向けのモデルスクールを実施してみて、これは絶対必要だと確信しました。モデル終了後の2016年10月、自主事業として改めてスタートします。講座名はこの時に設定したのですが、サッカー用語を用いて、チームの全体を見回して柔軟に業務遂行ができる人=ボランチ、と名付けました。

自主ですので、参加料も50000円と高価なのですが(特に専業主婦目線で言うと)、満席での開講を迎えます。意欲高いメンバーが集い、修了後もしっかり行動して「理想の働く」を叶えました、という報告が続いています。
振返ると、設立メンバーの様々な視点と専門性があるからこそ、必要とされる企画と実行ができているように思います。改めて仲間に感謝します。
そして、少し先に見えているのは、「再チャレンジ」ができる社会づくりです。
ママの視点から始めた活動ですが、仕事から一度身を置く必要がある状況に、関係ない人は一人としてありません。そんな環境で、自分の体や家族を優先したとしても、いづれ環境が許した時にもう一度「キャリアバック」できる環境を作りたい。それが私の願いです。

最後に私が感銘した言葉を紹介して終わりたいと思います。
「日本に起業家が少ないのは、ハングリー精神が少ないからでは?」という議論が持ち上がった時に、多摩大学大学院教授の田坂広志さんが発したコメント。戦後の豊かな時代に育った私たちは、「欠乏感」から起業する、というスタイルではなく、恵まれているからこその「感謝」の気持ちで起業するという選択肢があるのだ、と。私はまさに後者としてスタートし、そうあり続けたいと願っています。より豊かな次世代のために、これからも考え、行動していく人であり続けます。