緒方 容子(おがたようこ)

テルモ株式会社 臨床開発業務

緒方 容子
  • 新潟市出身
  • 1986年 筑波大学第二学群生物学類(医生物専攻)卒業
  • 1986年 テルモ株式会社入社 技術開発部にて医療機器の素材開発・評価に従事
  • 1990年から テルモ株式会社 臨床開発業務に従事。現在、課長代理
  • (医薬品治験、医療機器治験、市販後使用成績調査、QC、管理推進業務に従事)

女性が働き続けることが当たり前の家庭に育つ

私は幼い頃から、「自分の好きなことをやりなさい、そのために知識をつけて一人で生活していけるようになりなさい」と言われて育ちました。祖母の一人は教師をしておりましたし、同居していた祖母は、戦後タイピストの資格を取り、子供を育てながらタイプの仕事を請け負っていたそうです。晩年は共働きの父母の代わりに私の面倒をみておりましたが、私が小学校に入学するようになると詩吟を習い始めました。私が土曜日に学校から帰ると私を連れて教室に通っておりました。小学生の私は習い事が終わるのを待っていただけでしたが、まさに門前の小僧で、私も後に詩吟の初段を取得し気が付くと漢文が得意になっていました。祖母は総元代範の資格まで取得し、80歳で引退するまでたくさんのお弟子さんに詩吟を教えていました。母は保険会社に勤務しており、40代半ばに長年の夢だった飲食店を開きました。残念ながら後にそのお店は畳むことになってしまいましたが、私の周りの女性はみな働いており、働き続けるのが当たり前という環境に育ちました。

大学進学の際、「自分の好きなことを仕事にして働き続ける」というテーマを真剣に考え、大いに悩みました。獣医、出版社、プロデューサーなど思いは様々に巡った末、将来は医療に関わる仕事がしたいのだという結論に至りました。大学では希望通り人工臓器をテーマにしている研究室に進むことができ、人工肝臓の研究に取り組みました。教授から大学院への進学も進められましたが、すぐに働きたいという思いから人工肺を手掛けているテルモ株式会社に入社しました。

テルモ株式会社に入社~先進的な企業風土~女子寮を提案

会社に入社したらお茶くみがあると母から聞かされていた私は、研究所に勤務してお茶くみが無いことに驚きました。課長も部長も自分のお茶は自分で淹れて湯呑は自分で洗うという風習が既にできあがっていました。それまで研究所は男性ばかりだったせいもあるかもしれません。しかし女性の私が入社してからも新人に課せられるお当番も男女関係なく平等でした。みんなが所長の人柄に惹かれており、話がしやすく、研究所の雰囲気はとても良いものでした。当時としては先進的な風土だったと思います。
研究所では人工肺の仕事に携わりたかったのですが、基礎実験のデータをとるために屠殺場に行き大量の牛血を入手して運ぶことが必須でしたが、女性には辛いだろうという配慮からチームに入ることができませんでした。配慮は有難かったのですが少し悔しい思いをしました。人工肺チームに参加することができなかったこと以外は男女関係なく仕事をさせていただいていました。私が最初に担当した研究は、献血用の血液を新鮮に長期間保存することができるためのバッグの素材を研究する仕事でしたので、様々な素材を組みあわせて練りこんでシート状にしてバッグを作成し、血液の評価をするという、すべてが初めての経験でした。思い描いていた仕事とは随分違いましたが今まで知らなかった様々な知識を得ることができ、後の仕事に大いに役立ちました。
職場の雰囲気は良かったのですが、会社の制度はまだまだ男女不平等でした。男性には寮が完備されていましたが、女性にはなんの福利厚生も住宅手当さえもありませんでした。無理もありません。会社はそれまで自宅から通勤できる女性を採用していたからです。自宅通勤ではない女性を研究所に配属するというのはそこでは初めてのことでした。配属になった研究所では、研究職の女性は地元採用の1つ上の先輩一人と私だけという環境でした。男女雇用均等法が制定され、会社としては男女関係なく採用・配属したのですが、制度が追い付いていない状態でした。初任給で住宅手当も無い状況では生活は赤字でした。何より男女不平等というのが納得できませんでした。
研究所は静岡県の富士市にありましたので富士宮市に住まいを見つけました。富士山の麓で自然豊かな街です。見知らぬ土地でしたが、アウトドアの好きな私にとっては良い環境でした。しかし生活費用がマイナスになるという状況ではこのまま仕事を続けていく意味がないのではと思うようになりました。実際、学生時代にバイトで貯めたお金を切り崩していました。生活が成り立たないという理由で会社を辞めたいと親に相談した時、「3年は我慢しなさい、そのあとは自由にしてよいから。3年我慢できないならこの後どこへ行っても長続きはしないでしょう。」と母に言われ、社会人先輩である母の言葉を胸に続ける決心をしました。
続けるためには女子寮を作ってもらうことが先決と考えました。
そこで、女子寮を制定してもらうべく、組合や総務を巻き込んで女子寮第1号を設定してもらうことに成功しました。アパートの借り上げでしたが、画期的なことでした。この時には組合はもちろんのこと、所長や周りの方々のたくさんの働きかけがあったからこそであり、このときの準備や配慮を参考にして、徐々に全国に女子寮設定が定着していきました。当時、女性の先輩達は5年もいれば大ベテラン、結婚や子供を産んだら退職、というのが当たり前でした。しかし、女子寮の制定を初めとして、その後は働く女性たちの切実な声をもとに産後の職場復帰、育児休暇制度、女性の単身赴任手当、夫の転勤による海外赴任後の復職制度など女性が働き続けることができるための環境が徐々に整備されていきました。従業員の声を聴いてくれている会社も素晴らしいですが、まずは女性達が声を出し、改革していくことが大切なのだと思います。
自分から声をあげて、周りを巻き込んで改革していくことは会社の中で働く上で重要なことではないでしょうか。そのためにはまずは自分の部署にはこだわらず、積極的に色々な方と話をして人脈を広げていくことが重要だと思います。私自身は、最初に配属された研究所では仕事の時間だけでなく昼休みや飲み会などを利用してほぼすべての方と知り合いになりました。

営業職は女性ではできない??女性モニターで初の出張に。

勤めて3年経った時、3年我慢したので今後どうするかを考える時が来たと思いました。会社は好きでしたが、自分には基礎研究は向いていないということに気が付きました。人と接する仕事がしたい、と考え営業職への異動を希望しました。
朝は早く夜は遅く接待もこなさなければならない営業職は女性には無理とされていた時代でしたので、当時は他社も含めて「女性の営業」は考えもされない、ありえないことでしたので、その希望を叶えることはできないと言われました。
後に医療業界では、MR( medical representative:医薬情報担当者)という資格制度が導入され、医薬品の品質、有効性、安全性などに関する情報の提供、収集、伝達を主な業務とすることになり、接待の制限もできたため、どんどん女性が進出していくことができるようになったのですが、それはもう少し後になってからのことでした。
営業の道を閉ざされた私は落胆して転職も考えたのですが、課長の配慮で研究開発と営業の中間に位置する臨床開発という部署に異動することになりました。
研究開発で作り上げた新しい薬や医療機器を販売するためには実際に患者さんに使用してもらい、それが有効で安全であることを証明し、製造販売の承認を得る必要があります。臨床開発という部署は、そのための試験を立案、実施、解析してその有効性と安全性を確認し規制当局に申請する仕事をするところです。そこでは、医師、看護師、スタッフの方々と接する機会も多く、製品や医学の知識も要求されます。何よりも人とのコミュニケーションを要求されるこの仕事は、やってみて分かったのですが、私にはとても向いていました。
臨床開発の中でも様々な仕事がありますが、その中でモニターという職種があります。開発された製品の説明、施設との契約、データ入手、カルテとのデータの照合等を行う仕事です。承認されていない製品なので販売するわけではないので営業職とは異なります。配属されてすぐのころ、そのモニターをさせてもらいました。外回りをする女性モニターというのはとても珍しい存在でした。いたとしても日帰りのできる都内の病院担当がせいぜいでした。女性のMRがいなかった時代なので無理もありません。そんな時代に私の上司は女性であっても遠方の施設を担当させてくれたのです。女性が一人で出張というのはこれまた当時は敷居の高いことでした。おそらく女性では初めてで珍しかったこともあり、すべての施設で先生やスタッフの方と仲良しになりました。医局の前で出待ちをしている営業さんの列の最後尾に並んでいると手術から帰ってきた先生に呼ばれてごぼう抜きで先生にお話しすることができるということもしばしばでしたので、必要な書類やデータの入手を早く正確に回収することができました。上司はそんな実績を見て、女性に向いている仕事だと確信し、どんどん女性を抜擢して全国の施設を担当するようにしてくれました。
他社の臨床開発部の部長クラスの方々からは、女性をモニターとして全国の施設を担当させるために何を配慮したらよいだろう?という相談も持ちかけられたりしました。研究室の中での仕事とは全く違っており、初めての経験が多かったのですが楽しく仕事をすることができました。

会社人生30年~夢は人工血液を世に出すことでしたが・・・

数年して臨床開発の専門性を身に付けた頃、当時同じ会社にいた夫は人工血液の研究をしていました。将来臨床試験の段階に入った時には担当して、多くの人のために人工血液を世に送り出すことが私の夢となりました。その研究は20年以上続いたのですが、採算性等の問題から人工血液の研究テーマは打ち切りとなりました。
人工臓器を手掛けたいと入社しましたが、最初の希望の人工肺は担当できず、人工血液の夢は途中まで担当していたのですが、途切れてしまいました。テルモでは肺や血液の他にも腎臓や心臓などの研究もしていますが、それらのテーマに関わることはできませんでした。会社に入社しても本当に自分がやりたい仕事にはなかなかたどりつけないものです。今のところまだチャンスは巡ってきていませんが、「いつかきっと」を胸の奥に秘めて、知識と専門性を磨いています。
会社に勤めて気が付けば30年が過ぎました。
その間、会社を辞めたい、転職しようと考えたこともしばしばです。そのたびに色々な思いで踏みとどまりました。必ず思うことは「楽して稼ぐことはできない。仕事だから辛いこともある。」「乗り越えた時こそ達成感がある」「文句を言うならやってから意見として言う」「やるからには責任をもって実施し、成果を出す」ということです。
それから仕事以外の趣味で気分転換をすることです。私の気分転換はスポーツです。入社してからこれまでにスキー、カヌー、ダイビング、パラグライダー、グライダー、自転車、オートバイ、ボウリングなど様々なスポーツに取り組んできました。特に自然の中で取り組むスポーツをしていると自分の悩みがちっぽけなものであることに気づかされます。気持がリセットされて「明日からまた頑張ろう!」という気分にさせてくれます。
海の中からの眺め、空の上からの眺めは時に人生観も変わることがあります。それらのスポーツを通じて知り合った仲間はまた格別です。ONとOFFとの使い分けが長続きの秘訣ではないでしょうか。

そして常に「自分は何をしたいのか」「人生の中で何が優先なのか」を自分自身に問いかけています。会社員の場合には自分がやりたいと思う仕事ができるという機会はなかありません。異動や転勤などで知らない分野や土地に行くこともあるでしょう。家族と離れて暮らさなければならない場合や不本意な仕事をしなければならないことこともあります。その時には、転職や起業という選択もあると思います。でもその前に私は「まずやってみる」を実践しています。最初は何もわからなくても辛くても新しい発見や新しい人脈を作っていくことで自分のものとして取り込んでいくことができるのです。自分がやりたいことを発見することもあります。その経験が後で役立つこともあります。その上でこの仕事は自分に向いているのか、この会社で仕事を続けてよいのか、ということを考えながら進んでいます。
一方、自分が望む仕事していても続けられない状況に立たされることもあります。私の場合、自分自身が難病にかかってしまい、治療中は出張をすることができなくなり、内勤業務に変えざるを得ない時期がありました。義父の認知症、自分の親の病気、夫の転職や単身赴任など、働き続けるうえではプライベートな諸事情も大きく関わってくると思います。幸い現在は同居している夫の母が私だけでなく私の母までも全面的に支えてくれています。義母は自分自身も自営業でお店を切り盛りして働き続けた方ですので、嫁が働くことに対して何の抵抗もなく支援してくれます。本当に感謝の日々です。私が年齢を重ねたときの理想像は義母のようになっていることです。私が心置きなく仕事を続けていられるのは夫や義母の支援があればこそです。

さまざまな人、様々な機会~「まずやって見る」の実践

会社に勤めて人工臓器に関わる仕事をするという夢はまだ実現していませんが、患者さんのためになるような製品を世に送り出すことができる仕事に出会い、それまでに担当した様々な製品を世に送り出すことができました。臨床試験を実施しても必ず承認されて販売されるわけではありません。そんな中、「自分が手がけた製品は必ず世に出す。」ということを続けてこられたことが私の仕事をするうえでの自信となり、仕事を続ける原動力になってきました。海外との共同治験を実施したときは仕事の仕方や文化の違いに驚かされたりもしました。最近は、市販後の製品のデータを集めて安全性を確認していくという仕事に従事することとなりました。さっそく、「まずやってみる」を実践しています。

これからますます女性が輝く、女性のみならずそれぞれが輝いて働ける時代が来ています。まずは健康に留意して、家族を大切にし、夢を抱きつつこれからも仕事をし続けていこうと思っています。そして私の今後の課題は「セカンドライフで何をするか」です。大学進学の時に考え抜いたように「自分の好きなことをセカンドライフで実行する」ために今からその種を仕込むべく再度考えるときが来たと思っています。日本女子経営大学院に通い、そのことに気づかされました。そして学院を通じて得られた人脈を大切に育みながら探していくつもりです。木全先生との出会いもこの学院を通してでした。その後JKSKのLunch meeting in Englishでの学びやJKSK サロンで素晴らしい女性の方々のお話を聞く機会をたくさんいただいております。それら一つ一つが私にとって、これからのことを考える糧となっています。

同じ会社に会社員として勤め続けるという、何の変化もないような事でも色々な悩みを抱えながら乗り越え、続けています。夢を持ち続けていれば、夢から遠くなった仕事をしたとしても色々な知識は思わぬところで役に立つものです。そして人脈が周りを巻き込むための素晴らしい武器になります。
これからいろいろな人生を歩んでいく皆さまが素晴らしい人と出会い、新しい仕事にチャレンジしていくときに少しでもお役に立てれば幸いです。