松井 久子(まついひさこ)
映画監督
1946年東京出身。早稲田大学文学部演劇科卒。
雑誌ライター、俳優のマネージャー、テレビドラマのプロデューサーを経て、1998年『ユキエ』で映画監督デビュー。2002年には2作目『折り梅』が劇場公開。全国で活発な自主上映会が行われ2年間で100万人の動員を果たした。企画から7年半をかけて制作した日米合作映画『レオニー』が2010年11月に全国公開。2013年春からアメリカをはじめ世界各国で公開された。2015年1月ドキュメンタリー映画「何を怖れる」公開。2016年5月ドキュメンタリー映画「不思議なクニの憲法」を公開。全国で活発な自主上映会が行われている。
- 著書:『ターニングポイント0「折り梅」100万人をつむいだ出会い』(講談社)
- 『ソリストの思考術・松井久子の生きる力』(六耀社)
- 編書:『何を怖れるフェミニストを生きた女たち』(岩波書店)
- 『読む 不思議なクニの憲法』(エッセン・コミュニケーションズ)
- 聞書き:『教える力・私はなぜ中国のコーチになったのか』(井村雅代著・新潮社)
- 『シンクロの鬼と呼ばれて』(井村雅代著・新潮文庫)
1996年11月。今から20年前のアメリカ・ルイジアナ州バトンルージュ。
50歳を迎えて半年を過ぎた秋の日、私は日米混成チームで製作する映画『Solitude Point』の監督として、クランクインの現場に立っていました。
なぜ50歳にもなって、はじめて映画を撮ることになったのか?
それも、なぜ日本でなくアメリカだったのか?
そのことを理解して頂くためには、まず私自身のそれまでの女としての人生を振り返らなくてはなりません。
いつも予期せぬことの連続だった50年の日々をたどれば、
「人生は、若い日に思い描いたとおり進まない」ことがわかります。また、
「どんな人生も、結局自分で切り拓いていくしかないのだ」ということも。
若い頃は仕事への夢も覚悟もなかった私が、いつも目の前のことに精一杯向き合いながら生きて50年。気がつけば「遅咲きの映画監督」と呼ばれていたのでした。
少女の頃に抱いた夢は「良き妻、良き母」になること
若い頃、「映画監督になりたい」と思ったことはありません。
まだ、多くの女性たちが、仕事で輝くよりも「良き妻、良き母になるのが幸せ」と思い込んでいた世代です。
私も大学を出た後、真っ先にしたのが結婚でした。
あの頃、女にとっての結婚は「永久就職」と言われて、高卒で就職した友人たちの多くが職場で出会った男性と結婚して、専業主婦になっていきました。
が、私自身の結婚は、彼女たちのそれとはまったく違うものでした。
大学時代の同級生と大恋愛の末に結婚し、夫の夢を実現するために家計を支える役目は妻の私でしたから。進んでその選択に飛び込んでいったのは、子供時代の育ち方に起因していたと思います。
私の母は、四人の子を産み育てながら、夫の収入を補うために逞しく働いている女でした。女の人生は、多分に幼い頃の環境や生育歴の影響を受けるものです。子供の頃から祖母の「男に愛される女になりなさい」との教えを繰り返し聞き、夫や姑に辛抱強く尽くす母の姿を見てきた者は、自分は何がしたいのかを考えるより先に、愛する者のために生きるのが美徳と思い込んでしまう。
若い頃の私は、今となっては自分でも信じられないほど「古風な女」だったのです。
はじめての仕事はフリーライター
私は特別仕事運には恵まれていたのでしょうか、20代のキャリア・スタートはフリーランスのライターでした。
今では女性の憧れの職業と言われる雑誌のライターの仕事が、当時ほとんど男性で占められていた時代に、最初はアルバイトとして潜り込んだ出版社で、与えられた仕事にただ夢中で打ち込んでいたのです。
そして結婚から3年後、仕事が忙しくなってきたにもかかわらず男の子を産んで、もうひとつの夢だった母親になりました。
が、フリーランスで働く身には産休など望むべくもなく、仕事と妻と母親と、どれもおろそかにできない3つの立場を必死に生きているうち、自分もインタビュー記事を書かせてもらえるようになっていきます。
どんな仕事も最初は辛いことのほうが多いものですが、頑張って続けていると、3年が過ぎた頃にはその仕事の何たるかがわかり、楽しさも味わえるようになってきます。また5年くらい経つと少し自信もついてきて、7年経った頃には、周囲から一人前のライターとして認められるようになっていました。
女性の取材者というだけで珍しがられ、重宝がられ、年を追うごとに生き生きと有名人たちのインタビューをして歩き、雑誌アンアンや創刊当時のクロワッサンなどの女性誌に署名記事を書くようにもなれたのです。
ところが、仕事で周囲に認められていくその陰で、プライベートな生活では結婚前に思いもしなかった苦労が待っていました。経済的に夫と妻の立場が逆転していたせいか、いつの間にか始まっていた夫の家庭内暴力。一見速やかな世界に身を置く妻に食べさせてもらっている自分がよほど惨めに思えたのか、それともいつか自分の元を去っていくに違いないとの不安から逃れるためか、仕事を終えて疲れて帰ってきた妻に、夫は夜中じゅう殴る蹴るの暴力を繰り返す。そして私はいつも顔や手足にできた痣を化粧でかくし、そんな夫の暴力から逃れるかのように仕事に没頭していきました。まさに親兄弟にも言えなかったDVが、私の仕事が忙しくなるごとに激しくなっていったのです。
10年後に俳優のマネージメント・プロダクションを起業
そして30代のはじめ、私はついにその異常な夫婦関係に耐えきれず、結婚から丁度10年を迎えたとき、夫との離婚を決意します。33歳になったばかりのときでした。
そして、5歳の子どもを抱え、ますます仕事が重要なものになってきた私に、思わぬ幸運が舞い込みます。
あまりに自由のきかないフリーランスの立場に不安を抱いていた丁度その頃、取材で親しくなった俳優さんが「僕のマネージャーになってくれないか」と勧めてくれたのです。
そのとき私は迷うことなく転職を決意して、マネージメント・プロダクションを立ち上げます。
マネージャーの仕事は、常にアウトサイダーの感が拭えなかったライターの仕事に比べて、じっくり積み重ねて成果を出していく、未来のある仕事と思え、早く一人前になりたいと、マネージメントの仕事に全力で打ち込みました。
新しい仕事に恵まれて、「これからは誰に気兼ねすることもなく、自分と子どものために生きていくんだ」と、仕事で生きる覚悟をきめた時期でもありました。
ところが、何人もの名のある俳優さんを抱え、経済的にも安定した職業を得て、傍目にもプロダクションの経営者としての成功をおさめたと見えた頃、私はまたも10年間打ち込んだマネージャー業をあっさり捨てることになります。
「所詮自分は外野席にいる者の一人」というライター時代に抱いたあの疎外感。それによって転職したはずが、新しく得たマネージメントの仕事でもまたアウトサイダーの立場に悲哀を感じるようになっていたのです。
たとえば自分の会社に所属する俳優さんの撮影現場に行くと、監督を中心に沢山の出演者とスタッフたちが一つ作品のために力を合わせて働いています。
私は現場に行けばいつも外野から眺めているしかありません。そのうち次第に、つくる仕事についている人びとが羨ましく思えてきました。
子どもの頃から芝居やドラマに興味があって、大学進学のときは演劇科を選んだ私。大学在学中は何度も脚本を書き、演出をした自分。若き日のそれらの経験を思い出しては、「私も作る側にまわりたい」と渇望している自分に気づいたのです。
テレビドラマをプロデュースする仕事
私は、よほど「挑戦」の好きな人間に生まれたのでしょうか。
新しい仕事を始めたときは、いつもその仕事を得られたことを有り難く思い、全身全霊で打ち込むのですが、ひとつ仕事をして10年ほど過ぎると、なんだか自分が守りに入っているような気がして、居心地が悪くなってくるのです。
最初は与えられた仕事で一人前になるために、ただ没頭しているのですが、その仕事をマスターしていくうち、次第に次の目的が見えてくるという感じでした。
よく若い人から「自分が何をしたいのか、どんな職業が向いているかがわからない」という言葉を聞きます。そんな相談をされたとき。私はこう答えます。
「心配しなくて大丈夫。目の前の仕事を辛抱強くやっていれば、必ず本当にやりたいこと、自分に向く仕事かどうかが見えてくるものよ」と。
「でも答えは簡単には出ませんよ。ひとつ仕事を最低5年は続けなくては」と。
そして、マネージメントの仕事に10年打ち込んだ末に作り手を目指すことになった私は、40歳を目前に、テレビドラマの制作会社を起業したのでした。
同じ頃、プライベートでは中学生になった息子が、
「海外の高校に行かせて欲しい」と言い出して、最初は強く反対していた私も、最後は彼の夢を叶えてやりたいと、イギリスに留学する息子を涙で送り出すことになりました。
それからは、寄宿学校で学ぶ彼の学資の仕送りを続けるためにも、母親はさらにハードな「仕事人間」になっていきました。
当時のテレビドラマは、プロデューサーも演出家も圧倒的に男性一色の職場でした。視聴者のメイン・ターゲットだった女性の主婦層に向けて、男たちが「ああでもない、こうでもない」と議論し、女の気持ちを想像しながら手さぐりで女性主人公のドラマを作っていたのでした。
でも、女性である私には、普通の女たちに共感を得るテーマがわかっていました。自分がいま関心のあるテーマが、そのまま茶の間の視聴者たちに受け入れられるドラマになったのです。
また、私が提案したドラマが、女性プロデューサーの企画だからと排除されることもなく、私はその後10年の間に40本ほどの単発2時間ドラマを制作することができました。
ところが、作る側になったよろこびを味わう一方で、テレビ局と下請け制作会社との関係はあまりに過酷なものだったのです。
何人もの社員を抱え、会社を維持していくために、経営者の私は耐えず資金繰りに追われながら、また監督や出演者やスタッフたちに気を使いながら、神経をすり減らしていきます。
そして、50の声を聞く頃に、またも転身を考えるようになっていたのでした。
どれも半年以上のエネルギー費やし、苦労してつくった作品が、一夜放映されれば花火のように消えてしまう。そんなテレビドラマの宿命に次第に虚しさ感じるようになり、長く、繰り返し観てもらえる映画を作りたいと思うようになっていたのです。私を育ててくれたこの華やかなテレビ界は、もう自分の居場所ではない。一本だけでいいから、どんなに小さくてもいいから、映画をつくってみたい。それがテレビ・プロデューサーに10年間挑戦した末の答えでした。
50歳の挑戦・映画監督
もし若いときにどこかの企業に就職していたら、50歳から60歳の定年まで残された時間はあと10年しかありません。
また、企業人にとって、定年後の日々は「老後」であり「余生」です。
じっさい私の友人たちも、口を揃えて「そろそろ人生の仕舞い支度を考えている」と言っていました。
でも、実際女性の平均寿命は85歳。あと35年。それを「老後」と呼ぶにはあまりにも長い歳月です。幸い健康に恵まれた私には十分に転身と挑戦が可能な歳に思えたのです。
が、それもあくまで長年経験したプロデューサーとして、一度でいいから映画を作ってみたいと思ったのであって、「自分で監督を」などとは考えもしません。今では女性の映画監督が少ないながら活躍する時代になりましたが、あの頃の映画界は、ドキュメンタリーに女性の監督が何人かいても、劇映画では皆無でしたから、
「映画監督ばかりは、女にはさせてもらえない仕事」と思い込んでいたのです。
そして、1993年の芥川賞小説『寂寥郊野』の映画化を思い立った私は、自分で立てた製作予算の2億円を集めるために3年の歳月を費やし、ついにその資金調達が整ったとき、迷わず巨匠といわれた新藤兼人監督に
「この小説をシナリオにしてください」とお願いに行ったのでした。
そして半年後、新藤監督から出来上がったばかりのシナリオを渡されたとき、
「これはあなたが自分で監督をしなければ駄目だ」と言われるなんて、想像だにしないことでした。
それまで映画監督の勉強などしたこともない私に、日本一のシナリオライターを言われる方が、「もっと女性が映画を撮る時代が来なければ駄目だ。あなたなら絶対できる。やってみなさい」と、叱りつけるように言ってくださったのです。
決心できた理由はひとつしかありません。その映画が撮影も編集もアメリカでする作品だったからです。もし舞台が日本だったら、狭い世界で素性のバレている私が「自分で監督をしたい」などと言えるわけがありません。スタッフや出演者の誰が、女性で素人である監督の下で働いてくれるでしょう。
でも、日本ではあり得ないことが、アメリカだからできました。女性リーダーの下で男たちが仕事するのに何の抵抗もないアメリカであれば。
もうひとつ、息子をイギリスに留学させたことで、それまで極めてドメスティックな日本の女だった自分の視野が、どんどん広がっているのを感じていました。アメリカはもう私にとって遠い異国ではなくなっていて、男女を問わず誰かの「挑戦」を応援してもらえる社会と思えたからです。
アメリカだからできたこと
じっさい、最初の作品『ソリテュード・ポイント』(邦題『ユキエ』)をつくってから今日まで、20年の間に5本の映画の監督をしましたが、私は劇映画3本のうち2本をアメリカでつくっています。
それはひとえに女性である私を受け入れてもらえる国、ありのままの自分を発揮できる場所が、日本でなくアメリカだったからなのでした。
日本の映画界は、それまで私が仕事をしてきたどんな場所よりも、男社会の因習が根強く残った世界でした。
男たちは女性の下で働くことに抵抗があり、女性もまたリーダーになるための教育を受けていない。
それは映画界ばかりではない、日本社会の現実です。
3作目の日米合作映画『レオニー』をつくったとき、プロデューサーであり監督である女性の私が、日米合わせて450人もの出演者とスタッフたちのリーダーとして映画を完成させることができたのは、アメリカ社会が性別や年齢などにとらわれず、
「この監督は、自分の作品のためにどんなビジョンを持っているか」だけが問われ、そこをクリアできれば皆が敬意をもって、私という監督を受け入れてくれる社会でした。
作品が完成したとき、ある日本の新聞記者の
「これまで日本の名のある監督たちが長い間できなかったことを、なぜ素人であり女性である松井監督ができたんでしょうね?」という皮肉をこめた質問に、ハリウッドのプロデューサーが答えていました。
「それはヒサコが日の丸フラッグを背負ってこなかったからだよ。彼女は僕たちの前で、いつもヒサコ自身だった」。
ハリウッドは世界中から夢を抱いてやってきた、さまざまなクリエーターたちがうごめく「人種のるつぼ」のような世界です。そこでは人種も国籍も関係なく、皆が「個」として考え行動していました。
そこでは日本で問題になる「帰属している組織」や、「実績」や、「有名か無名か」などが一切意味をなさず、ただ監督が「どんなビジョンをもっているか?」だけが問われます。
クランクインの日、それまで6年半もの歳月をかけて13億円の資金を集め、シナリオの書き直しを17稿も重ねて、やっと制作段階にまで漕ぎつけた私には、もう怖いものなどありませんでした。
レオニーただ6年半考え抜いた『レオニー』のビジョンを皆に伝えればいい。そう覚悟をきめてアメリカのクルーたち、俳優たちに向き合うことができました。
そして彼らも私の熱意に応えてくれて、映画『レオニー』は完成することができたのです。
そして2010年11月の公開の日、「彫刻家イサム・ノグチの母の人生を映画にしたい」と思い立ってから8年半の歳月が過ぎていました。
女が映画をつくるということ
映画の世界に女性監督が少ないのは、なにも日本ばかりではありません。
世界の何処の国でも女性監督の数はまだまだ少なく、「それは何故なのか?」と考えると、やはり映画監督ほど究極のリーダーシップを求められる職業は他にないからと言えるでしょう。
20年前、『ユキエ』の現場ではじめて監督をしたときの私は、リーダーに求められるものの何たるかが、まったくわかっていませんでした。
監督が大勢の出演者やクルーたちに自分の要求通り動いて貰うには、揺るがぬ自信をもって、自分のビジョンを明確に伝えなくてはなりません。また監督は、下で働く何十人もの人びとの信頼を勝ち得なければ、現場を引っ張っていくことができません。
20年前、その仕事をはじめて経験する私は、リーダーの役割を十分に果たすことができない自分に、最後まで戸惑い苦しみました。
リーダーとしての資格。それを邪魔するものは、「愛されたい」という女性の内に根強く巣食ったDNAであり、抜きがたい依存心です。女であるがゆえの甘えです。
今にして思えば、新藤監督に背中を押されて、何の準備もなくいきなり監督の立場になった私には、大勢の人を引っ張っていくだけの覚悟がありませんでした。「どうしてこんなに孤独なのだろう…」「誰か、私を助けて欲しい」
周囲は映画づくりのキャリアを積んだ人ばかりです。その中心にいて、絶えず自分のなかの依存心と格闘していた。
それが私の最初の監督体験だったと思います。
そして、なんとか最後まで折れることなく自分の仕事をまっとうできたのは、女性に偏見のないアメリカ社会のおかげと、もうひとつ、2本ともに制作現場に息子がいてくれたからでした。
『ユキエ』のときには通訳として、また『レオニー』のときはプロデューサーとして、私の英語の未熟さを息子がフォローしてくれたのは、私にとっても息子にとってもたいへん貴重な体験でした。親子で仕事を共にするのには難しい面もありますが、息子の支えがあったからこそで、これも日本の社会ではなかなかあり得ないことだったかもしれません。
お客さまとの出会いを財産にして
そんな私の幸運な人生のなかで、何より恵まれたものが多くの人との出会いだったと思います。
特に映画をつくり始めてからは、どの作品にも市民レベルの応援団ができて、観客の立場から物心両面でたくさんの人に支えていただきました。
デビュー作の『ユキエ』を発表して以降、全国各地ですっと重ねられた女たちが主催する自主上映会で、私はたくさんの観客との出会いを果たします。
それはテレビドラマを制作していた頃には想像もできなかったことで、映画とともに全国を歩くうち、その土地土地で足を地につけ素敵に生きる女性たちとの、数々の出会いでした。
「やっぱり女性がつくった映画は男の監督がつくったものと違う。また上映会をするから絶対二本目をつくってね」
何処に行っても励まされ続けているうちに、2作目の認知症の介護の苦悩と家族の再生を描いた『折り梅』をつくる元気が湧きました。
この作品も資金集めに四苦八苦していたときに、全国の『ユキエ』の主催者と観客の方々による『折り梅』応援団ができて、企画から公開までの4年に及ぶ歳月をサポートしてくださいました。
2002年公開の『折り梅』は、高齢社会に突入した時代の要請を受けてか、私の予想をはるかに超えて共感の輪が広がりました。2年間で100万人の観客動員という『折り梅』の実績は今でも語り草です。
全国で出会ったお客様たちが映画製作の企画段階の私を支えてくださる。
このスタイルはその後も続いて3作目『レオニー』の支援団体「マイレオニー」が結成されました。全国約3500名のサポーターによる団体です。この「マイレオニー」がクランクインにこぎつけるまでの6年半もの長い間、私を励まし支え続けてくださったのでした。
映画の企画を見つけてから実際に製作実現に漕ぎつけるまでの日々は、本当に過酷です。毎回、何の保証も収入もないままにシナリオ執筆と製作資金集めに没頭する。資金が集まらなければ途中で諦めなきゃならない。
日米合作で『レオニー』を作りたいと思ってからも、何度も挫折感に襲われては気を取り直して前に進むことを続けられたのは、
「この映画は絶対にできますよ。諦めてはダメ」と側でいい続けてくれたマイレオニーの皆さんのおかげでした。
アメリカ南部のニューオリンズでクランクインしたばかりの日。マイレオニーの面々がツアーを組んで撮影現場まで激励に来てくれたときのことは生涯の忘れられない思い出です。
「俳優のファンクラブはアメリカにもあるが、監督のファンクラブなんてはじめてだよ」とスタッフたちが笑っていたものでした。
そして4作目の『何を怖れる』と5作目の『不思議なクニの憲法』では、ドキュメンタリー作品のため製作資金の出資や協賛は望めないので、その度過去のお客様や新たに出会った人びとに募金のお願いをして、2本ともお客様の浄財で映画をつくることができました。
そして、そのようにして完成した映画は、毎回自主上映会というかたちで観客の皆さんの手で全国に広げられています。
人を巻き込む力
こうして映画づくりを通じて出会った全国の方々の数は作品を産み出すのに比例して増えていき、今では全国に沢山の「お友達」と呼べる人が増えていく私。ほんとうに幸せ者ですね。
よく取材などで「あなたの人を巻き込む力の秘訣は?」と聞かれることがありますが、私自身は巻き込むというよりも、気がついたら応援していただいていたとの思いの方が強いです。
でも、「どうして?」と問われて改めて考えてみると、私の映画づくりはいつも最初は「一人ぼっちだったから」だと思うのです。映画界の村社会に「遅れてやってきたおばさん」が受け入れて貰うことがなく、毎回監督とプロデューサーの両方を一人で担っているうちに、「ならば私が応援してあげる」と思ってくださる方が沢山いてくれたのでした。
でも、つくった映画がつまらないものだったら、次の作品では去って行かれたでしょう。男性のプロデューサーや監督には興味を持ってもらえないテーマを見つけ、女性ならではの視点で描く。それが及第点をもらえてはじめて次の作品も応援して頂けるのだと思っています。私を応援してくださる彼女たちは作品のもっとも厳しい批評家であるとの緊張感は忘れたことがありません。
そしてもうひとつ。私は人間が大好きで、人との出会いが大好きだから、どこに行っても映画を観てくれたお客様の声を聞くのをいちばん大切な時間として全国を歩いてきました。
資金集めの時期も、撮影で大勢の人びとのなかにいるときも、毎回途方もない苦労がつきものですが、それを乗り越えられるのはお客さまたちとの再会と出会いが待っているからです。辛いときはいつも思うのです。
「これができたら、またあの人と会える。まだ会ってない人と会える」と。
どこにも属さないから自由
こうして、いつも人に恵まれてきた私。その幸運を感謝せずにいられない一方で、やっぱり「ずっと一人できたんだなぁ」との思いも強いのです。
10年ごとに転職をしながら、いくつもの仕事に挑戦することができたのも、一度も企業や組織に属することなく生きてきたからでした。
頼る組織も、守ってくれる上司もいないフリーランスの立場は、いつも心もとなく孤独だったけれど、その分常にそのときどき、自由な選択ができました。
誰にとっても「人生は一度きり」だと思えば、私は他の誰とも違う私だけの人生を送ってきたと言うことができます。
その間、女の私が男社会で居場所を確保し続けるには、幾多の困難を克服しなくてはならなかったものの、女だったからできたことも沢山ありました。
女性は、社会的な地位や名誉や、経済効率を求めません。自分自身の実感、「これが私の生きがい」と思えるものや、社会的使命感を優先する生きものです。
いつも貧しかったけれど、年ごとに明確になっていった自分自身の価値観を頼りに、それを仕事に生かしながら日々を送ってきました。
そして今71歳。結婚、子育て、仕事のすべてによって育てられてきたとの思いがあります。離婚をしたとき、私は自分を偽って生きることはできないのだと思い知り、以降はずっと、経済的安定や社会的な地位名声よりも、自身の美学に従って生きて来られたのは本当に幸運だったと思います。
若い頃に願った「沢山の子に囲まれた母」にはなれなかったけれど、私には毎回身を削って産んだ5本の映画があります。
女たちの思いを作品にして、その映画を全国の普通の人びとに届けて歩きながら、各地の女性たちと出会い、つながっていく。
また新しい映画をつくれるかどうかはわかりませんが、これからも自分自身の実感と価値観を信じて、わがままに生きていきたいと思います。