山内 満子(やまうち みちこ)
スリーラインズ株式会社 代表
- 2008年、地元の遊子漁業協同組合女性部部長に就任。
- 2016年までの8年間、地域の生き残りをかけた地域活性化、魚食普及活動に部員と共に奔走。
その活動が認められ、2012年第17回全国青年・女性漁業者交流大会、地域活性化部門に於いて「農林水産大臣賞」、第51回農林水産祭(新嘗祭)水産部門に於いて「内閣総理大臣賞」、2014年国際ソロプチミストアメリカ日本西リジョン「ルビー賞」他、多数受賞。 - 更なる魚食と養殖漁業のPRのため、2016年9月にスリーラインズ株式会社を立ち上げ、新たな水産イノベーションに取り組むための活動を開始。
普通の主婦からの挑戦
私は、キャリアでもなければインテリでもない、ごくごく普通の主婦です。 家の事、家族の事や地域との関わり等々、揚げるとキリのないほど一日中マルチタスクで動いています。この思考回路を事業に向けたらどうなるのだろうか・・・
活動の原点「大家族!」
私は、1967年愛媛県の漁村で生まれました。三姉妹と父母、祖父母、曾祖母の他に、叔母や叔父はもちろん、全くの他人の一家が、我が家や敷地内の別宅に入れ替わり立ち代わり生活しているというとても奇妙な環境でした。 夏休みともなると父の11人兄妹とその子供たちまでもが帰省してくるので、どのようにみんなで生活していたのか全く思い出す術もなく、いわゆる家族の温もりや団らんなどほとんど記憶に残っていません。
家業も「真珠母貝養殖」、「温州ミカン」、「ブロイラー養鶏」、「ゴカイ養殖」、「自然薯栽培」等々、変遷していきました。 しかも、この事業を父母でやっていたのではなく、父は真珠母貝養殖業を廃業した後に出稼ぎに出て、母一人でこれらの事業を実施していました。当然、私たち姉妹も小学校に上がる頃には母の手伝いをするのが日常となり手伝っていました。その環境でも私は、以外にもワクワクと楽しんでいました。でも、父が居ない事や手伝わない事に幼いながらにも疑問に感じていました。また、小・中学校時代は、学校行事や部活動の合間に、新聞配達や、近所の真珠貝掃除のアルバイトで体を使って稼ぐということを実践していました。 その頃の経験が、一次産業を生業として生きようと思い、一次産業の事業をするなら夫婦や家族でやりたいと強く思うようになった原点だと思います。
運命と宿命
その後、父の現場での事故をきっかけに出稼ぎ生活からも自営業からも脱しました。父は大工見習、母はアパレル工場へと、揃ってサラリーマンとなりました。 私はといいますと、高校へと進学し、大学進学を目指していた高校1年の冬、現在の夫と出会いました。大学進学より自営業を営む夫と家族と一緒に自営業をする事を想像したらワクワクしたのです。 1987年20歳になって宇和島市遊子魚泊地区に嫁いだ私でしたが、嫁いだ山内家は、父母、祖母、私たち夫婦の家族経営でハマチ養殖業を営んでいました。 ここには、私の理想の家族像と、仕事が在りました。その後、2男1女をもうけ8人家族になり、毎日忙しいけれど家族そろった日々を過ごしていました。 しかし、幸せな一家だんらんの生活も1999年のハマチの餌の高騰、販売価格の暴落とでアッという間に経営困難となり、地域全体の生活までも激変する事態となりました。 この地域もこの20年間で養殖業を営む家庭の数は、3分の1になり、このままでは我が家も倒産を待つのみでした。
「廃業してサラリーマンの道もある・・・」そう口に出しそうになった瞬間、実家の父母の顏が頭の隅をよぎりました。「これは、私が山内家に嫁いだ本当の宿命だったのかもしれない。」と、思いました。そう、長い長い布石の末のチャンスだったのです。あの時の私は、子供だったので手伝いをすることしかできなかったのですが、今はやれる!!家族がバラバラにならない方法を考えることができる。「廃業は、直ぐできる。」と、考えを180度変換して無い知恵を絞り経営を立て直すために奔走しました。保有していた稚魚や、使う頻度の低い船を売却し、残った魚を販売しながら、真鯛養殖に切り替えるための準備に入りました。夫は、同じ志を持つ仲間づくり。私は、真鯛の出荷ができるまでの生活費を稼ぐために市内の企業に就職しました。そこから5年かかりましたが、真鯛養殖業に切り替えて現在まで家族で養殖を生業として生活しています。 このようなピンチに見えるチャンスを掴めたのも、幼い頃の両親が身をもって教えてくれた事だったのでした。
私の使命
どんなに生きたくても必ず人の死はやってきます。私も今日まで大勢の死を見てきましたが、幼い頃の記憶ではいつの間にか居なくなった程度で、あまり死に関して深く考えたことはありませんでした。 しかし、山内家に嫁いで22年目におとずれた初めてのお別れは、私の脳裏に深く刻み込まれました。
山内家の祖母は、年明けに肺炎を患って入院し、一進一退の病状の中で「家に帰りたい」が、祖母の口癖になっていました。主治医の先生に相談しても、「家に帰ったら1年持たないかもしれません」との宣告は受けていましたが、ここで人らしさを無くしてまで・・・また、家に帰りたい祖母の気持ちを無視してまで入院を続けさせる意味があるのだろうかと考え、家族と相談した末、自宅療養を選択しました。 何年の介護生活になるのか想像もできませんでしたが、重く捉えず気持ちに素直に行動していました。
自宅の自室に介護ベッドを入れて、主治医の先生には往診、ケアマネさんには、点滴等の介護をお願いし、私一人ではなく大勢の人に支えられて介護生活に突入しました。ご飯を食べられるうちは、元気でお見舞いのお客さんとも和やかに話をしたり、昔話に花を咲かせたりして過ごしていましたが、後半になると食事はほとんど摂れず、点滴と口から摂取できる氷の欠片だけで命をつないでいました。日に幾度もマッサージと氷の欠片を要求されるのですが、全く疲れを感じませんでした。それどころか、足をマッサージしている時と、氷を口にした時の祖母の至福の顔は今でも忘れられません。 祖母は、亡くなるまで正気でしたので体を拭いたり、おしめを交換したりするときも、羞恥心を持ちながらも人の終わらせ方を伝えるような優しく感謝の気持ちが伝わってくる介護でした。
当然ながら最期の日がやって来ました。その日も、いつものように家事の合間に介護をしていましたが、誰ともなしにひとりふたりとお見舞いにやってきたのです。庭に咲いていたからと大きな花束を抱えてくる人・・・顔を見たいからと来る人・・・帰省したからとやってくる人・・・理由はそれぞれでしたが、こんな奇跡があるでしょうか。引き寄せられたかのようにベッドの周りが親戚でいっぱいになりました。うとうとと眠ることの多くなっていた祖母でしたが、花の匂いを感じたのか目を開けて「いい香りがする」と笑っていたのです。私は、一生懸命話そうとしている祖母の口元に耳を近づけて、かすれるような声を聴き取りました。すると、いつもの氷の催促でしたが今日は何か違いました。氷をいつも以上に美味しそうに堪能した後にビックリするほどしっかりとした声で「ありがとう」といったのです。その後、目を閉じて眠ってしまいましたがそれが最期でした。自室のベッドで、娘や孫や親族に囲まれての最期でした。自宅に帰って2か月目の2010年4月、短い期間でしたが大往生の瞬間に祖母の92年の人生の縮図を垣間見たような感じでした。 私の知る遥か昔から、どれほど周りに幸せを与えていた人だったのでしょう。亡くなった人を前にこんなに暖かい気持ちになったのも初めての経験でした。
この死をきっかけに、人間が生きていくためには様々な人との繋がりがあっての人生だと、当たり前のことを改めて実感し、祖母からバトンを渡されたような気持ちになりました。「次の世代に引き継ぐために生き、自分の持っているものを与え、使命を全うして地域での生き様を見せる」それが、死ぬということ、生きるということなのだと悟りました。遊子に嫁いですぐに子宝に恵まれ、子育てと日々の生活に追われ地域「遊子」を見つめる時間など皆無の日々を過ごし、このままなんとなく老後を迎えると思っていましたが、この時を境に山内家の嫁として生きる覚悟と、遊子の地で生きる覚悟ができたように思います。 「遊子」に暮らす子供達に、土俵である自分達の「遊子」、残すべき価値ある「遊子」を最高の形で引き継ぐことこそが、今を生きる私の使命ではないかと考えるようになりました。
現在は、パーキンソン病の義母の介護と家事、仕事の両立に明け暮れていますが、これもバトンを引き継いだ私に与えられた使命ですから、日々対峙していきます。その最期の日が来るまで・・・
地域との関わり
「上波(うわば)」と呼ばれていた地区が、子供たちの遊びまわる声が地域に響き渡るようにと1685年に改名された「遊子(ゆず)」地区は、愛媛県の宇和海に面した段々畑が見おろすリアス式の入り江の海岸と潮流に恵まれた、養殖業に最も適した環境にある8地区の集落からなる漁村です。そこに、「遊子漁業協同組合」があり、その組合の一翼を担って1955年に設立された遊子漁業協同組合婦人部が今も「遊子漁協女性部」と名称を変えて活動を続けています。そんな団体も2008年に解散の危機がありました。その危機を脱するために女性部の部長に強制的に抜擢されたのが私でした。「無理!」と訴えましたが、断ることもできずに走り始める事になりました、祖母の死を経験した私は、いやだと思いながらもこの地に引き寄せられ、地域に目を向けることとなりました。 夫には、役を受けたことでひどく怒られましたが、「受けたんやったらやるしかない」と、協力してくれることになり、「日本一の漁協女性部にする!」と、まるで成功哲学に挑戦するかのように目標を掲げました。
「無理!」から始まった再生女性部の活動でしたが、実質、男社会の漁村では、男衆が最大の壁でした。漁村での女性の地位確立のためにも、ここで踏ん張り知恵を出し合い、協力してくれる仲間とともに様々な困難や壁も乗り越え活動しました。実際8年間の活動の中で地域特産物の加工品を作って移動販売できるキッチンカーを導入したり、新商品開発に取り組んだり様々な組織改革をしたことが認められ「内閣総理大臣賞」をはじめ8つの賞を戴き、実質日本一の漁協女性部になりました。地域でも、結果を出した後には男衆も応援してくれるようになりました。スタートは、強制的でしたが、この経験は私の運命を変える貴重な経験でした。この8年間の間に、大学を卒業して県外に就職をしていた長男がUターンして家業を継いでくれることになり、思ってもいない嬉しい展開が続きました。決意して目標を掲げ一歩踏み出すことで、何かが変わり光が見えてくることを実感しました。 地方での活動は、世間様を気にしては何もできない。自分ルールと、家族ルールで行動すればいいといった簡単なことに気が付いた事で、この先の挑戦がとても楽になりました。
地域貢献
長男を迎えての次のステージは、地域貢献でした。真鯛の水揚げ日本一の宇和島市の園児の給食に、外国の冷凍魚が提供されていたことを知り、「スリーラインズ」というグループ名でお魚の加工をはじめました。また、「えひめいやしの南予博2016」では、「宇和海の魚と養殖魚を知ってお魚博士になろう!」と銘打って自主企画に取り組み、豊かな宇和海に生息するたくさんの魚の存在を知ってもらいたいとの想いで、天然魚を扱う「刺し網漁」の体験受け入れや、その魚を持ち込んだお魚教室を企画しました。特に保育園でのお魚教室では、生きているものは生きたまま、死んだものは氷で絞めて運び、自由に触ってもらいました。 ふたを開けた途端に奇声と歓声があがり、女の子も男の子も関係なく盛り上がりました。この、子どもたちの真剣なまなざしは、毎回忘れられないシーンでした。
もう一つは、家業の「真鯛養殖」を体験してもらうものでした。 出荷体験や、給餌体験をするために、全国各地から家族で参加してくださったり、仲良しグループで参加してくださったり大人も子供も楽しんでいただけました。
この企画は、参加して下さったお客様に楽しんでいただけただけではなく、この企画をやり遂げたことが、我が家の男衆を改革する取り組みにもなりました。 当初は、「こんな儲けにもならんもんやってどうするんだ!!」と言っていた夫でしたが、一年が過ぎてみると、お客様の直接の声を聴くことのできるこの企画の虜となっていました。
また、嘘のような本当の話ですが、この体験を実施することで、長男に運命の出会いが訪れました。東京からツアーで参加してくれたグループの中の一人を、長男の嫁に迎えることになりました。ご縁はどこにあるかわかりません、本当に感謝!感謝!です。
ここにきて地域づくりの先を考えた時、地域全体が豊かでなければならないことに気が付きました。 地域と関わりながら地域が元気になる事業を、後継者としてUターンしてきた長男家族に、安定した事業を継承したいと考えるようになりました。
会社設立の決意
2016年9月、「スリーラインズ㈱」の誕生です。経営理念は、家族団らんで、ものを分け合ったり、地域でのお裾分けをしたりする田舎のいい風習を残していきたいとの想いを込めて「わけたよろこびは2倍のよろこびになる」を掲げました。 なんともホンワカな主婦の発想なのですが、この想いが地域を守りたい!残したい!に直結しているのです。
餌の要らない、自然環境に極力左右されない養殖を探して「スジアオノリ」に巡りあいました。スジアオノリのノウハウは、0からのスタートでしたから事業を始めるのには、資金と協力者が必要でした。そこで、事業の資金とメンターを調達するために、株式会社日本政策投資銀行の主催する「第6回DBJ女性新ビジネスプランコンペティション」に応募しました。5ヶ月に渡る審査の結果、「女性起業ソーシャルデザイン賞」を受賞することができ、兎にも角にもスタートラインに立つことができました。メンターの先生のお蔭で目標も明確になり、事業がスタートしました。 そのことによって、長男につづいて次男もUターン、長女も嫁ぎ先から通って手伝ってくれることとなり、この先の不安よりも家族6人で事業に取り組めることに、とてもワクワクしています。
現在、青のりの常識を覆すような女性目線でのメニュー開発や、商品化に取り組み、女性をターゲットにした販売戦略を組み立てています。 また、新たな養殖技術確立に挑戦しています。将来は、愛媛県を青のりの産地にしたいと考え養殖場と加工場の建設に取り掛かり、毎日奔走しています。
そのような折、「2018年7月豪雨」で、宇和島地区も未曽有の災害に見舞われました。一次産業に従事するということは、このような天災や自然災害とも対峙していかなくてはいけません。日本中どこにいても、どこか遠くの出来事ではなく誰が災害に合うかわからない今日です。
これからも、無理!!と思う想像もできない高い高い壁が、私の前に立ちはだかると思います。でも、これまでの経験と協力して、力を貸してくださる大勢の方々に感謝を忘れず突き進んで行きます。新事業を軌道に乗せ、息子世代に引き継げるよう、日々進み続けます。これは、未来の子供たちが、この地で生きていける地域を作るための第一歩です。 100年後、200年後の私たちの存在しない世の中に、この宝の「海」を、「地」を、「産業」を残し、一次産業の中でも女性の輝ける地位を確立するために今少しだけ、主婦の知恵で頑張ります。