河合 江理子(かわい えりこ)
京都大学大学院総合生存学館(思修館)教授
- 1977年 筑波大学(旧東京教育大学)付属高校卒業
- 1981年 ハーバード大学卒業 (学士)
- 1981年 野村総合研究所(東京)研究員
- 1985年 INSEAD大学院卒業 (MBA)
- 1985年 McKinsey & Co (パリ) 経営コンサルタント
- 1986年 SGWarburg, Mercury Asset Management (ロンドン) ファンドマネージャー
- 1991年 Detroyat Associates 証券リサーチ会社(パリ) エコノミスト
- 1995年 Yamaichi Regent Polska(ワルシャワ)投資担当取締役執行役員
- 1998年 国際決済銀行(BIS)(バーゼル)職員年金基金運用責任者、上級ファンドマネージャー
- 2004年 経済協力開発機構(OECD) (パリ) 職員年金基金運用責任者
- OECD勤務中 国際通貨基金(IMF)の短期外貨資産運用専門家(フィジー中央銀行、ソロモン諸島中央銀行)
- 2008 スイスで起業
- 2012年 京都大学国際高等教育院(旧京都大学高等教育研究開発推進機構) 教授
- 2014年 京都大学大学院総合生存学館(思修館) 教授
私は高校卒業後、あるきっかけからアメリカの大学に進学することになり、それから約30年間、フランスやイギリス、スイス、ポーランドなど様々な国でキャリアを積んできました。そして現在は京都大学の大学院で教鞭を取り、若い世代がコミュニケーション、リーダーシップを学んで、自信を持って世界で羽ばたけるような後押しをしています。
「計画的偶発性理論」をご存知でしょうか?これは、スタンフォード大学のジョン・D・クランボルツ教授が提唱したもので、この理論によると、キャリアの80%は「予期しない出来事」の積み重ねによって決まるそうです。そして、その「予期しない出来事」をただ待つだけではなく、そのような出来事を生じやすくするために、自ら働きかけることができると考えます。クランボルツ教授は、好奇心や冒険心、楽観的な態度を持つことの重要性を指摘していますが、自分自身の経験を振り返ってみると、まさにそれが当てはまるように思います。私は、「未知の世界を知りたい」という気持ちや、そこに飛び込んで自分を試すこと、そして「きっとうまくいく」と信じることを大事にして生きてきました。
1枚の張り紙がきっかけで、ハーバードで留学することに
人生の転機となったのは、高校三年生の時です。私は日本で生まれ育ち、クラブや学業に勤しむ普通の学生でした。母親は専業主婦だったので、私が同じように家庭に入ることを想像していたと思います。それが、長い間にわたって海外で仕事をすることになるなど、人生は本当に分かりません。
当時は何となく「国際的な仕事がしたい」と思っていましたが、所詮高校生の考えることですので、かなり漠然としたものでした。そんなある時、職員室の前に掲示されていた1枚の張り紙が目に留まります。それは、「グルー・バンクロフト基金(グルー基金)奨学生」の募集に関するものでした。グルー基金は、アメリカの有名私立大学に進学するための奨学金制度で、奨学生として選ばれると、4年間学費と生活費を支給してくれるというものでした。「これがあれば、両親に頼ることなく自分の力で留学ができる。」それは、一高校生の淡い夢が、「何としてもこのチャンスを掴み取り、海外で挑戦しよう」と強い決心に変わった瞬間です。
そして、実践の英語力をつけるために、予備校などに行かずに、大学生や社会人が通う日米英会話学院などにいき、運よくハーバード大学に進学するチャンスを得ることができました。私は海外に行ったことはなく、それどころか一度も飛行機に乗ったことがないような状態でした。ハーバードに合格したとはいえ、アメリカでの大学生活を生き残れるような英語力はありませんでした。日本人の留学生もいましたが、彼らは帰国子女だったため私とは状況が異なります。留学開始から最初の1年間は、授業の理解や友人との会話にとても苦労しました。大学の同窓会でかつての級友と話していると、「あなたはよく話をする人なのね」と在学していた時との違いに驚かれました。その頃は英語が壁となって、またハーバードの優秀な学生たちのレベルの高いディスカッションにもついていけず、内向的な人と思われていたようです。ハーバードからも奨学金をもらっていたので優秀な成績を取らなくてはならず、ハーバードの日々はいつも緊張感がありました。4年間の寮生活では、「あなたはできる(You can do it)」「革新を起こせ(Make a difference)」というハーバードの理念を叩き込まれたと思います。
帰国後に直面した職場での「壁」
大学を卒業した後は日本に帰国し、野村総合研究所(野村総研)に入社しました。しかし、当時は男女雇用機会均等法の施行前で、男女差別が歴然と存在していた時代でした。入社前の面接では責任ある仕事を任せてくれるという話でしたが、実際には「女性だから」という理由で、コピー取りやお茶汲み、男性社員の補助業務をすることになりました。新人だからという理由ならまだ分かりますが、女性だからということでこのような処遇を受けるのは納得できません。そのため、「お茶汲みはしません」とはっきりと宣言しました。アメリカでは「もっと自己主張しなさい」と言われ続けていたため、日本企業が求めていた従順な女子社員になれず、周囲から浮いてしまうことになりました。今から考えると、とても生意気で自己主張の強い面倒な社員だったと思います。途中から、雑用仕事も積極的にするようにして、女性社員との関係もよくなりました。
私は留学していたため就職活動ができず、新卒ではなく中途採用の枠だったのですが、当時、大卒の女性の中途採用を行っている企業は殆どありませんでした。そういった事情があり、私を心配してくれた中学時代の友人の父親の紹介で、やっと見つけた就職口でしたが、1年働いた後に退社しました。直属の上司からも「あなたはここにいたら病気になる。あなたのためにこの大きな組織を変えることはできない」と忠告されました。海外の大学を出たことが日本では評価されず、性別を理由に活躍できるチャンスが与えられない。これではいけないと痛感し、ビジネススクールへの進学を決めました。周囲に認めてもらい、より魅力的な職場で働く可能性を高めるための切符として、MBAを取得しようと思ったのです。進学先としては、ヨーロッパで最も定評あるビジネススクールのINSEAD(フランス)を選びました。普通は2年かかるのですが、1年でMBAを取れるというのもINSEADを選んだ理由の一つです。
再び海外に
野村総研を1年でやめ、ハーバードの卒業生が作ったベンチャー企業に転職します。そこでは、ビジネススクールに進学するための学費と生活費を貯めました。平日の仕事に加えて週末は副業で通訳をし、更に週2回フランス語の勉強をしていました。野村総研での苦い経験から、自分がしっかりと力を発揮できるような環境で仕事をしたい、なんのために苦労して留学したのかと考え、それに繋がるための努力は惜しみませんでした。転職から1年半後、憧れのフランスにあるINSEADに入学することができました。
ハーバードでは多様性があるとは言えアメリカ人が中心でしたが、INSEADでは、文字通り世界各地から学生が集まっていました。グローバルな環境に身を置くことは、戸惑いや苦労も多いですが、非常にわくわくする経験でした。また、ビジネススクールでは主にケーススタディーを扱うのですが、授業中にどれだけ沢山発言して議論に貢献するかということが非常に重要です。初めは発言するのも気後れしていましたが、少しずつ順応していき、積極的に学ぶことができるようになりました。吸収力のある若い時に、優秀な級友たちと密度の濃い1年間を過ごせたのは、本当に良かったと思っています。自分のことを理解してくれる友人がたくさんでき、まだ頻繁に連絡を取り合う仲間になりました。やはりグローバルコスモポリタン的な価値観を共有しているのだと思います。4年間学生生活を送ったアメリカの競争社会はあまり好きではなく、人間関係もフレンドリーですが広くて浅いと思っていました。それに比べて、ヨーロッパの家族や、文化、歴史、人生を大切にする価値観はとても惹かれるものがありました。84年に渡欧した時は、2012年まで欧州で仕事をすることは予測しませんでしたが。
必ずしも順風満帆ではなかったキャリア
INSEADでの1年間の奮闘の末、無事にMBAを取得することが出来ました。卒業後は、パリで就職したいという強い希望でマッキンゼーのパリオフィスに就職することになりました。その後はイギリスの投資銀行であるウォーバーグ銀行を経て、フランスの証券リサーチ専門会社、ポーランドの山一證券の合弁会社など、世界各地で仕事をする機会に恵まれました。こうして書くと、いかにも順調にキャリアを築いているように見えますが、実際はそうではありません。組織に翻弄され、前向きな気持ちを失った時期もありました。
例えば、フランスの証券リサーチ専門会社では、規模の小さい組織でありながら影響力のある仕事ができ、充実した日々を過ごしていたのですが、社長が出張先のニューヨークで心臓発作により急逝するという不幸が訪れます。あれよあれよという間に業績が悪化し、転職せざるを得ませんでした。寝耳に水とはまさにこのことです。
また、夫の転勤に同行する形でフランスからポーランドに移ったのですが、そこでも災難に見舞われます。初めは幸運でした。現地では山一證券が合弁会社を立ち上げていることが分かり、知り合いの伝手をたどって、そこで仕事を見つけることが出来たのです。CIO(Chief Investment Officer)という責任ある魅力的なポストに就くことができ、全てが順調に行っているかと思われたのですが、1998年、山一證券が倒産してしまったのです。倒産のニュースをテレビで見たとき、茫然としたことを覚えています。
そして、社内の環境が180度変わってしまいました。大株主だった山一證券が倒産したことから、以前は日本人との取締役として私を尊重してくれていたメンバーが、手のひらを返したように様々な嫌がらせを始めたのです。業務を遂行するどころではなくなってしまいました。そして、不本意ながらも再度転職を迫られました。2度にわたり会社存亡の危機にあい、さすがにこの時期は参りました。もうこの年になって、厳しい転職活動をするのはたくさん、そんな気持ちだったのですが、休みを取りながら(その頃夫が移り住んでいた)スイスで仕事の面接を受けました。その頃は40歳ごろでしたが、インタビューで「あなたのような年齢の人は新しい仕事は見つからないよ」とヘッドハンターに言われたり、言葉もできない、全くコネのない国での就職活動ですから大変でした。INSEADの卒業生のネットワークを使って就職活動をしました。そして、運よくスイスに本部がある国際機関のBIS(国際決済銀行)で働くことが決まりました。私が去った後、2ヶ月後にポーランドの会社は政府との契約を停止されて、経営破綻したそうです。
スイスの国際機関への転職
それで1998年にスイスの小都市バーゼルにあるBISに年金運用責任者として就職いたしました。BISは世界の金融市場におけるルールづくりを行うなど、極めて大きなインパクトを持つ組織です。小さい頃から夢見たような「国際的な仕事」がまさにできる環境だと言えます。優秀な同僚も多く在籍しており、給料や福利厚生の点で大変恵まれていて、最初は「理想の職場だ」と心が躍りました。しかしながら、どんな組織でもそうであるように、BISも良いこと尽くしではありませんでした。BISは「中央銀行のための銀行」と呼ばれているのですが、1930年の世界恐慌金融危機の際に設立された銀行で、リスクはとらず、保守的でした。職員も多くは終身雇用で、「挑戦しよう」という気風がありません。500人という小さい組織で、専門性の高い仕事なので同じ仕事を定年まで続けるという人が多かったです。変化のない環境に身を置いていると、仕事に対するモチベーションを失うだけでなく、金の鳥籠に閉じ込められて、コンフォートゾーン(居心地の良い場所)を去ることが出来なくなった自分がいました。それまでは新しいことに興味を持って、そのためには困難でもやりがいある世界に飛び込むことを厭わなかったのが、ここに来て安定に甘んじるというか、外の社会にチャレンジするのが怖くなっていました。
あるキャリアコーチとの出会い
このままでよいのかと悩む中で、転機が訪れます。あるキャリアコーチに出会ったのです。彼の名前はジョージ・コールリーザ―。ジョージは、スイスの名門ビジネススクールであるIMDで教授として教鞭をとっているのですが、臨床心理学者であり、誘拐事件などで犯人と直接やり取りをする「人質交渉人」でもあるという異色の経歴を持っています。
彼に悩みを相談し、コーチングを受けた結果、自分がリスクに対して過剰に恐れていることに気付きました。「あなたは何をそんなに恐れているの?」、そう問われたのです。そして、彼と話しているうちに、自分が心から欲していることに忠実になり、それを追い求めることの大切さを再認識したのです。その気づきに後押しされて、再び転職することを決意しました。そして、今度はパリが本部の国際機関である、OECD(経済協力開発機構)で働くことになったのです。
元々はBISの2年間の休職制度を利用しながら「まずは半年だけ」と決めてOECDで働いていたのですが、OECDで様々な業務に携わるうちに、「自分は経済的安定よりも自己の学び、成長を大事にして働きたい」と確信し、BISを去ることに決めました。OECDはBIS以上に職員が多様で、職場の風通しも良く、のびのびと仕事をすることができました。散々迷いましたが、転職を決意して本当に良かったと思いました。
この経験から、悩んだり迷ったりしたときは、自分の「心の目(マインド・アイ)」で、自分が本当は何を望んでいるかを見つめること、そしてひとたび自分のやりたいことが分かった時は、それをしっかりと追い求めること、不安には心の目で見つめない、が私にとって重要な指針になりました。不安を考えると前には進めません。このことを教えてくれたジョージは、今でも私にとって重要なメンターの一人で、京都大学におけるリーダーシップ教育にも協力してくれています。
教育分野への転身
そして、OECDの仕事もとても楽しかったのですが、ルーティーンにもなってきました。また全く投資のことを知らない人事出身の無能な上司が来て、仕事もストレスになってきました。また主人がスイスで働いていたので、パリとスイスと別々に働くのもどうなのかと考えて、かつての上司のアドバイスで、スイスで金融コンサルタントとして起業したのですが、起業後すぐに、リーマンショックにあい、経済活動を促進すべき金融業が利益優先の無責任な行動から世界にこれほどの打撃を与えてしまったということに非常にショックを受けました。真剣に考えたのですが、金融業界を去り、社会貢献をしたいと思い、自分に何ができるだろうかと考えた末、教育の分野にその余地があるのではないかと思いました。と言いますのも、海外で暮らしている際に日本人の大学生と話す機会が何度もあったのですが、「正解を覚えればよい」という考えをする人や、世界政治や経済知識、社会経験が少なく非常に子供っぽかったり、日本の常識が世界の常識と思いこむ人が少なからずいて、日本の教育に対して危惧を覚えていたことがあります。また、自分の経験を日本の若い世代に伝えて、様々な自由な生き方やもっと世界には素晴らしい活躍の場があることを知ってほしいと思ったこともあります。そして、日経オンラインで私が執筆していた連載『英語の公用語化ってなに?』を目に留めてくれた京都大学の先生から講演をする機会をいただき、その後、公募に応募し、同学で教えることになりました。研究者でない私にこんな機会をいただけると夢にも思っていませんでした。これも心の底から思っていることは、天が応援してくれるのだなと思った経験です。
現在は、京都大学で最も新しい大学院である、総合生存学館で教鞭を取っています。この大学院では、複合的でグローバルな課題の解決に取り組む学生を育てることを目指しているのですが、彼らが活躍するために必要なコミュニケーションスキルやリーダーシップなどを教えています。「自分の培ってきた経験が、少しでも彼らの役に立てば」、そんな思いで日々学生たちと接しています。
最後に
私の好きな言葉は、「人間万事塞翁が馬」です。どんなに失敗してもそれは永遠に続かないし、残念ながら良いことも同様です。ハーバード大学から奨学金を受けて4年間素晴らしい環境で勉強した後、日本での就職、仕事の苦労、そして、パリでの社長の急死や山一証券の倒産などを苦しい経験した一方、ポーランドでの民営化の仕事、ロンドンでの投資銀行での仕事、大好きなパリでの仕事など、とても素晴らしいこともありました。OECDを辞めてスイスで起業後直後にリーマンショックにあい、決断が間違っていたことに気がつきました。偶然の出会いがあり、今は京都大学の教授としてアカデミアで仕事をしております。こういう様々な浮き沈みを経験すると、人生は「塞翁が馬」だと感じます。幸せや不幸は人間が決められることは限られています。そういう中で、まだ起きていないことに心配してエネルギーを使わず、「心の目」をポジティブにフォーカスして、皆さんには思いきって新しい世界に飛び込むことの大切さをお伝えしたいです。先が見えないことは不安かもしれません。今いる場所に不満はあっても、なかなか一歩を踏み出す勇気を持てないかもしれません。しかし人生は一度です。それは私がメンターから伝えられたメッセージです。
目標に向かって進むことは、前向きに生きる気持ちや活力が湧いてくる、とても素晴らしいことだと思います。そうすることで、思いもよらない景色が見えてくるようになると思います。
今コロナウイルスに対する危機対応で将来が見えず、不安な時です。経済的にも非常に困難な時代になりそうです。こういう時こそ、将来に希望を持って、皆さんそれぞれが自分のやりたいことを実現し、自分らしく生きていけるよう、心から応援しています。