大竹 奈穂子(おおたけ なほこ)

Manner-BOAlliance株式会社 代表取締役


2022年の新年を茨城県立病院の集中治療室で迎えた。「私は助かったのだ。私は生きている。」

前の年、コロナ禍に見舞われ、経営する研修会社の仕事が減り、取引先に対する研修が動画配信に変更、また勤務先の大学の年末業務など師走の多忙を過ごし、晦日を一人で年越しをするために東京から茨城県笠間市にある別荘まで運転してゆき現地に到着しほっとしたのもつかの間、脳出血を起こし救急車で病院に搬送されたのだ。真夜中にもかかわらず実家の90歳の母と連絡が取れ、119番へ通報、たまたま二人の脳外科医にカテーテル手術をして頂き助けていただけたのは本当に幸運というしかない。

今回、JKSKの活動を知るにあたり先輩の皆さまの素晴らしい人生の歩みには到底及ばないが、私が歩んできたことが何かしらのお役に立つことを願い、百名山をお引き受けした次第である。

令和の時代、日本では社会で女性が活躍できる時代になったとはいえ、ジェンダーギャップ指数は128位、世界の中ではまだまだ男女の地位、収入格差は大きく女性が自分らしく生きてゆく上ではまだまだ障壁や課題が大きいのが現状である。 

女性の就職は「腰掛」の時代

私は昭和32年、雪国秋田市で生まれ、地元の中学から静岡県裾野市にある寄宿舎のあるカトリックの女子高校に進学した。ここで、厳しい生活規律と徹底したマナー教育の下で全国から集まった同じ世代の女子たちとの共同生活を3年間送ることになった。富士山の麓の茶畑に囲まれた緑豊な自然の中での暮らしで得たものは、現在に至るまで人生の基盤となり恩師や出会った仲間は現在に至るまでかけがえのない宝物となっている。 

やがて大学に進学し、東京での暮らしが始まった。大学では心理学を専攻し、卒業後は企業への就職を望んでいたのだが女子大学の就職担当者は就職=結婚への永久就職を勧める始末。当時、4大卒の女子の採用は縁故以外に無く、実家からの通勤に限られ、地方出身者は自力でつてを探すしか方法はなかった。 

20代はじめ、大学卒業式のとき

そのような中、「味の素」社にご縁を頂き、本社秘書室に配属になった。 

1979年4月のことである。雇用均等法以前、大卒女性は腰掛と揶揄され、結婚を機会に早々に退職することで会社に長く居座られては迷惑な雰囲気が漂っていた。当時の味の素では女性管理職はたった一人だったと記憶している。 

秘書室の仕事が面白くなった師走が押し迫った頃、秘書室長から日本秘書協会の催しがあるから出席するようにということで先輩の秘書らとともに八重洲にある協会に出向くことになった。華やかな会場では講演会がおこなわれた。税所百合子氏による「キャリアウーマン私の道」。当時OLと呼ばれた女性会社員にとってはキャリアという初めて耳にする言葉。そしてキャリアウーマンという社会の中で自分の足で立ち、仕事に生き、さらに自分の人生の充実を追及する女性たちが米国には存在することに大変な衝撃を受けたのである。 

私の生家は秋田で酒づくりをしており、いわゆる商家のため人の出入りが多く、幼い頃から働く人々に囲まれていたこともあり働くのはごく当たり前という意識が刷り込まれていたし、将来結婚して家庭を持つことがあってもお互いの生き方を尊重し、社会で仕事をすることを良しとする伴侶でなければ、と考えていた。 

たまたま友人を介して出会った伴侶は女性が仕事をし、社会の顔をもつことには理解があったことには大変ありがたかった。しかしながら当時の味の素では結婚するならば退社するのが通例、ボスや人事部に掛け合いしばらくは共働きをしていたのであるが、「前例が無いから」とやんわりと諭されて泣く泣く退社せざるをえなかったのである。 

退社以降5年間の専業主婦時代は自分の収入が無いため、公務員の夫の給料での生活のやりくりと、二人の子どもの幼稚園で○○ちゃんのママと呼ばれる自分の名前では語れない生活であった。しかしながら、子どもが通う白金幼稚園、海園長率いる「自然とこどもを守る会」のPTA活動を通じて社会や政治のしくみ、環境や教育問題、女性の社会化、生き方について様々な知見と学びを得ることが出来たことや、共に子育てをした親たちとは本音で付き合える関係を築き、お互いに助け合いながらの育児環境は親子ともに心身を健康に保つために大切なことだったと実感している。1990年、夫のスイスでの海外研修に同行し帰国した9月、私は33歳で再就職を決意し専門学校の教員の職を得ることが出来た。担当科目は「秘書概論」と「秘書実務」「医療秘書実務」などで、秘書の経験を元に授業をすることになった。 

新たなキャリアスタート

池袋にある専門学校で18年間の教員生活を送る中で秘書検定に出会い、秘書検定1級を取得、その後秘書検定面接審査員を務めるうちに、いくつかの企業研修を請け負う機会を得ることになった。 

2、3の研修会社に所属し、研修業界の現場の厳しさを知り、また研修講師としての資質を磨く機会を得ていた同じ頃、日本人としてのマナーの基本を学びたいと考え、日本の武士の礼儀作法である小笠原流礼法を伝える聖鈴会に入門。月に1度、教場である芝の増上寺に通い、鈴木総師範から教えを乞う機会を得た。 

長男の中学受験が終わり続いて次男の受験。小学生にとって受験勉強に縛られる生活はあくまでも親の考えでのことであり、彼らにとっても大切な時間を果たして勉強オンリーに費やしてよいものか。子供の数が少ない都心で子育てすること、また彼らの資質を伸ばせる環境を考えた末に二人ともに受験を経験することになった。 

夫と同じ中学へ進み野球に燃えていた長男が高校生になったある日、身体の不調を訴えるようになる。原因がわからずメンタルを疑って、あちらこちらの病院を巡った結果、脳腫瘍と判明した。楽しい高校生活から一転、手術、入院加療の生活が始まった。親としては何が何でも助かってもらいたいと願い、すがるものには何でも、という思いであった。 

入院生活は主治医と息子の友人たち、祖父母や友人たちに支えてもらえたこと、そして何よりも息子の「お母さんは仕事を続けていつもと同じ生活をしてほしい」の言葉に支えられながら、仕事と病院の掛け持ちをこなす数年間を過ごした。 

入院生活をしながら大学受験を経て現在社会人として頑張っている長男の姿にはとにかく生きていてくれるだけてありがたい、という思いである。 

「Manner-BO サロン」始動

息子の闘病生活から解放された頃、私は48歳になった。 

子育て中に家庭と両立できる仕事は無いかと模索をしていたところ、18世紀フランスで流行した「サロン文化」という言葉に触発され歴史を調べてみた。主に女性が中心となり、夕方からお茶などを飲みながら「様々な知識人たちとの交流や社交を楽しむ文化」。私がやりたいのはそれだ!との思いにかられ、早速に調査を開始。まずは場所を得ること、そのためには資金が必要で、資金や人をどう集めるのなどの課題があったが、やると決めたらとにかく動きださねばと行動を開始した。場所は人が集まりやすいところで、例えば街の公民館や廃校になった学校など。その周辺に時代に合うおしゃれなカフェやお店があればなおさら人は集まる。 

そんな折、1991年に開業した恵比寿ガーデンプレイスに隣接する坂道を通った際、偶然にも小さなマンション建設の立て看板が目に留まった。自宅に戻り早速、連絡先に問い合わせてみると、これから説明会やモデルルームが設営されるとのこと。リーマンショックの直後だったこともあり、場所の割には私でもなんとか手が届きそうな価格だ。さてどうするか……。貯金どころか頭金すら無いが、なんとしてもやりたいとの思いが募り、ダメ元で父に借金の願いを申し出ると、父は「銀行から借り入れをして自分で払うのならば、と快諾。銀行に同行してお金の借入や返済の仕方を指南してくれたことは、のちに起業する時に大変役立った。 

40代、個人企業主となり、また帝京大学で教鞭もとる

1999年に9月、個人事業主として「Manner-BO サロン」を開業。「生涯学ぶ」と「マナー講師」にちなんだネーミングで、現在も開業以来のマナーなどの講座を中心にいくつかの講座を行い、そこに集まる方々との交流や社交、そしてなにかしらの学びが持てる場として2024年で25年目を迎える。 

サロンに関わって下さる講師の方々、そして参加してくださる皆さまそれぞれが何かしらの学びと心が豊かになるようなひとときを持てたらとの思いで、参加される方と共に年を重ねている。サロンはあくまでもゆるやかに人とのつながりを持ち、皆様が気持ちよく気楽に愉しめる場であるべきと考えるために、運営費維持費としての経費以外の利益はほとんど期待できないのが実情であり持続するためには皆さまの協力無しにはやっていけない。 

講師の方々には決して持ち出しが無いように相談し、工夫を重ねているし、参加費はサラリーマンの無理のないお小遣い程度と決め、集客はSNSや口コミ、紹介で行っている。  

なるべく継続して参加していただけるよう、そして参加することで新たな学びや出会いがあり、人が繋がる魅力的な機会になるように工夫するのも楽しみであるし、参加される皆さまが笑顔で過ごされる様子は何にも代えがたい喜びである。 

2010年、官庁に勤務していた夫が退職。そのタイミングで、それまでに研修に携わってきたことと、自らの思いを形にするために会社を設立したら、との助言で研修会社「Manner-BOAlliance株式会社」を設立することになった。私を含めて女性4名の講師仲間でスタート、夫は裏方、経理担当である。4名それぞれが営業も講師も分担して動き始めた。起業当初は今よりもエネルギッシュで勢いや夢があり、4名が知恵を出し合いながらそれぞれによい関係を保ち、仕事に邁進していけたのであるが、自分たちの体力の衰えや、時代やお客様のニーズに合わせて最良のものを提供し続けてゆかねばならない苦労をコロナ禍以降、感じるようになった。 

50歳で株式会社を起業

設立14年を経て

2024年の今年6月、会社設立から14年を迎えたのであるが、経理担当で法律に詳しかった夫が9年前に亡くなり、その後事務・経理を引き継いだメンバーの1名が離れ、現在はメイン講師2名と社長兼経理兼営業担当の私の3人で会社を運営している状況である。会社創業にあたり極力無駄を省くために社屋は持たず、打ち合わせやセミナーはサロンを借用、PC1台で運営できればと考えており、経理はクラウド会計ソフトのfreeeを導入、研修内容によっては講師を都度契約して委託するなど、まさにスモールな会社である。

33歳で専門学校の秘書学科の教員としてキャリアをRe・スタートしたのだが、その後周りの方からいくつかのチャンスを頂き短期大学、大学へと仕事のフィールドが変わっていった。処遇も非常勤から特任として常勤扱いをしていただけけるようにもなった。

現在は鎌倉市にある鎌倉女子大学の初等教育学科で「キャリアデザイン」「秘書学概論・実務」の教科を受け持っている。大学生が自身の人生をデザインし、ライフとキャリアを充実したものにしてほしいと願いながら彼らの自己実現に向けてサポートができればと思っている。

人間性を磨き続ける

教育機関で働くのは、公募に応募するか関係者からの推薦を受けるかの二つである。 

教員ポストに空きがあってのことで、なかなかタイミングが難しいのが実情であるが、チャンスを願い模索し、チャンスが到来したとき、さらにそれに応じられるスキルを持ち続けることが大切だと思っている。コロナ禍以降、価値観や考え方、仕事や働き方に大きく変化が生じ、日々情報のアップデートや多様性を理解するしなやかな頭が必要であるし、また大学などの教育機関は少子高齢化に伴い存在意義や学び方にも変化が求められているため、仕事の上でもITやDXなどに対応できる技術や知識の習得が必要である。VUCA(V-Volatility:変動性、U-Uncertainty:不確実性:、C-Complexity:複雑性、A-Ambiguity;曖昧性)の時代を生き抜く上で自分軸をしっかりもちつつ、謙虚に自分の人間性を磨いてゆくことは一生やり続けることと考えている。 

2年前の手術直後から4カ月間の社会復帰に向けたリハビリの甲斐あって今こうして普通に社会生活を送れていること、お世話になった理学療法士の先生方や受け入れてくれた大学には感謝でいっぱいである。 

私もシニアの仲間入りをし、教育や、仕事現場から離れることが視野に入ってきている。かつて仕事でお世話になった方々や恩師、私の最大の理解者であった夫も亡くなり、現在は老犬との暮らしである。仕事に区切りをつけることも、また秋田で一人で暮らす母の介護も近い将来始まるであろう。東京にいられるうちは美術や芸術など本物に触れ、また茶道やゴルフの上達を目指したいと思う。そして今もなお茶道に励み、知的好奇心が枯れることの無い母を見習いながら秋田と東京を往復、「秋田観光口コミ大使」として秋田の食と日本酒文化を世界にPRしていこうと考えている。 

「生きているうちは活きて」は大学の恩師である岡宏子先生の言葉であるが、健康に動けるうちは自分が必要とされる場で自分がやれることを活き活きとやってゆきたいと思っている。