木全 ミツ(きまた みつ)

NPO法人JKSK 元会長

木全 ミツ
  • 福岡県久留米市生、東京大学医学部(公衆衛生)卒
  • 労働省海外協力課長、労働大臣官房審議官、
  • 国連日本政府代表部公使(New York:外務省出向)
  • (株)イオンフォレスト(The Body Shop, Japan) 代表取締役社長(創業社長)
  • 他NPO 法人、財団法人・社団法人等の団体役員を
  • 多数務めている。

国連公使を終えて:

日本の官庁では、上級職採用の官僚の場合、同期の採用の仲間の1人が官僚のトップ(事務次官)になった時点で、全員本省を離れる(天下りなど、他の組織に異動)のが習わしである。ニューヨーク赴任は、49歳~52歳であったため、帰国して労働省に労働大臣官房審議官として戻った時には、同期は数人しか残っていなかった。つまり、ニューヨークから帰国したら、木全はどこかに異動する時期であろうということは、周囲のものは誰でも思ったであろう時期でした。

3年の任期を終える数か月前から「政治家にならないか」のお誘いを3党から受けました。「貴党では、私に何の役割を、何を期待しておられるのかお聞かせいただけますか」「お返事をする前に,貴党の諸政策について政策討議をさせていただけませんか」という、こちらのオファーに、3党とも応じてもらえずでした。
要するに、政治の内容ではなく、候補者の数を集めるだけの目的でのアプローチであったのか・・・と日本の政治の貧弱さが寂しかったです。

また、政治家のみならず、役人、企業経営者、学者なども「21世紀は女性の時代」などと、口にする人が多くなったけれど、具体的な施策、方針をもって対応している企業は皆無に等しい時代でした。ただ、そこそこの経歴を持った女性を顧問として受入れれば、何か女性を活用しようとしているという企業のイメージアップにつながると思ってか、その動きを見せる企業は垣間みられるようにはなっていました。多分、そういう流れの中でであったと思いますが、ニューヨーク滞在中に、5つの企業からコンタクトがありました。「貴企業では、私に何を求めておられるのでしょうか。どんな仕事を期待しておられるのでしょうか」「貴女が、なさりたいことを何でも・・・」「はぁ?・・・」余りの無責任さに驚くと共に、面白い、本来の私の意思には全くないことだったのですが、一つ質問を・・・と思い「お給料は、いくら位?」と伺ってみた。「お好きな額だけ・・・」一寸、ふざけて「では、3億円」とでも言ってみようかな・・・と遊びこころが走りましたが、余りにもふざけた話ですので、その質問は止めにして、お引き取り頂きましたが、5社の全社が殆んど、似たり寄ったりの同じ対応に、日本の実態に唖然とすると共に失望感を禁じ得ませんでした。しかも、日本の男性が最も大切にしている面子、自尊心を傷つけられない様にという配慮からか、政党の場合も、企業の場合も、トップからのアプローチではなく、断られても誰も傷つかない立場の人からのアプローチで、しかもこちらの質問には全く答えることが出来ない立場の人たちでした。「こんなやり方では人は動かない、人を動かすことは出来ない」「真剣に仕事をしよう・・としている態度であろうか」と仕事をしている私の常識では考えられないショッキングな体験でした。

1本の電話から新たな展開が始まった

そして、帰国後、労働省に戻り労働大臣官房審議官をしている時に1本の電話がかかってきたのです。「ジャスコの岡田です」と。お目にかかりたいという電話でした。小売業の方が私に何ゆえに?でもご用事がおありになるのだからお電話をくださったのであろう・・・と近くのホテルでコーヒーをすすりながらお目にかかりました。「イギリス生まれのザ・ボデイ・ショップがですな…、名前がわるいので変えろというんですが変えんとですよ・・・」「一体、この方は何をしゃべっておられるのかしら?」しばし、お話を黙って伺うことにした。ひと通りのお話しが終った時に、「あの~、私は現役の官僚です。何か、お話を伺っていると、私に官僚を辞めろとおっしゃっているように伺えたのですが・・・」「そうです」「ワッハッハッハ・・・」と、その後の会話は続きませんでした。「お話をしたように、世界の環境保護を提唱しているザ・ボデイ・ショップです。化粧品会社ですが広告は一切しないのですよ。しかし、創業者のアニータ・ロディックはマスコミからインタヴューの要請があれば、社長業の最優先事項として率先して応じています。
従って、毎日のように、アニータについての記事が、活字が新聞紙上で、雑誌で飛び交っています。今日は、最近の切り抜きをお持ちいたしましたので、折角ですので持っていってください」どかっと分厚い切り抜きの束を渡された。「ああ、おかしい!私を引き抜きにいらしたのだわ」と思いましたが、切り抜きの束は、審議官室の片隅でしばし忘れられることになりました。
昼休みの時間など、一寸、手持無沙汰の時などに、その切り抜きをぱらぱらとめくっていくうちに、面白い「こんな企業が、こんな会社がこの世の中にあるだろうか!」「こんな女性が、この世の中にいるのだろうか!」鼓動の高鳴りを覚えるようになっていきました。「岡田会長、少し、追加のお話しを伺いたいのですが・・・」「お互いに忙しいので、早朝30分で結構ですので・・・」と朝のデートを申込み、結果5回のデートを楽しませていただいたことになりました。「あの怖い岡田会長を呼び出すなど、ジャスコ(イオン)グループでは前にも後にもあなたぐらいですよ・・・」と後で、何人の方から言われたことか。日本の社会に「ヘッドハント」などという言葉もなかった時代です。まして、官僚から小売業に異動という前例もない時代でした。(1989)
97~98%、このお話をお受けしようと決意が固まった時に、労働省で尊敬している男性の先輩に、初めて心を打ち明けることにしました。役所の人事担当部局の仕事は、50%は現役の方たちの人事業務であるけれども、あとの50%は、50歳前後で役所を去らねばならないキャリアの官僚たちの行き先のお世話だと聞いていたので、私の場合は、お世話にならず、ご迷惑をかけず自分で行先を決めて卒業していくので、さぞかし喜んでもらえるのではないか、大歓迎してもらえるのではないかと思い、意気揚揚と話を披露したら、「木全君、君は、武士階級から最下層階級の商人に落ちるのか」さらに、「業種は化粧品トイレッタリー業界です」「化粧品?(蔑むように・・・)」それでも怯まず「全国に星の数ほどお店を造り、それらの店舗を拠点に、世界が直面している”環境保護”人権擁護” ”動物愛護”などの問題について、店を訪れるお客様、店が存在するコミュ二ティの方々とご一緒に社会変革活動・キャンペーンを展開していこうと考えています」と続けると、「とうとう、木全は気が狂ったか・・・」と言われながら、約30年在籍した労働省を後にしました。2001年1月のことでした。

役所で約30年務めた人の多くは、短くても2週間、通常2か月位の休暇をもらい配偶者と海外旅行を・・・・というのがパターンでしたが、私の場合は、退官の辞令を午前10時に受取り、その日のうちに関係機関などのあいさつ回りを終え、翌朝9時にはジャスコ本社の役員会に出席、入社の挨拶をし、その日の午後から英国のザ・ボデイ・ショップ本社の幹部を相手にジャスコのフランチャイズ契約(机上に置かれた電話の受話器を外した状態で)交渉チームの一員として仕事を開始しました。従って、今日まで、私はゆっくりと休暇を取らせていただいたという実感はありません。
1990~2000年の10年間(巷では、失われた10年などと言われていた)が、この10年は、私のザ・ボデイ・ショップ、ジャパンのビジネスと社会変革活動のチャレンジでした。

ビジネス界を中心に、20世紀までの人類は、豊かさを求め、経済成長、儲け儲けを目標に夢中に走りまくってきた。地球が人類のみならず、すべての生物の財産であるということを忘れて・・・。この20世紀における企業経営を根本から見直し、環境保護(自然との共存)、人権擁護(地球上のすべての人々が等しく人権を尊重される社会の実現)、動物愛護(地球は人間だけのものではなく、全ての動物達と共有するものである)という基本認識にたって運営する「21世紀型経営」を世に提唱し、行動を起こしていった素晴らしいザ・ボデイ・ショップビジネス。「自分のことしか考えない日本人からなる日本市場でザ・ボデイ・ショップビジネスが成功するわけがない・・」と国際社会で揶揄される中で、「日本人を立証して見せたい」という強い想いで、引き受けたザ・ボデイ・ショップ、ジャパン創業社長でしたが、10年間で北海道から九州まで、130店舗を展開、環境保護、人権擁護、動物愛護の分野で社会変革キャンペーンを35回展開。2年目に単年度黒字化、3年目に累損一層、4年目に無借金経営、世界に「日本人」を証明できたと思っています。(つづく)