河口 真理子(かわぐち まりこ)

大和総研勤務
日本サステナブル投資フォーラム共同代表理事、国連グローバルコンパクトネットワークジャパン理事

河口 真理子

大和総研勤務、日本サステナブル投資フォーラム共同代表理事、国連グローバルコンパクトネットワークジャパン理事。
気候変動問題、水資源や鉱物資源不足、森林減少砂漠化、生物多様性の喪失、グローバルな貧富の差の拡大の問題、など私たち人類が直面する課題をどう乗り越えて、いかに持続可能な社会に作り替えていくのか。そのために企業の立場(CSR)、投資家の立場(ESG投資)、生活者の立場(エシカル消費)からすべきことは何か、をテーマに研究、提言、発言を行っている。


証券系シンクタンクで環境・CSR・ESG投資を調査しつづけてきました

環境経営、CSR、SRI、ESG投資、エシカル消費。大和総研調査本部主席研究員という肩書で私が今カバーしている研究テーマです。大和総研は、大和証券グループの経済・金融を専門にしたシンクタンクです。そこで、今の経済や社会を時には否定、批判するような論陣もはってきたので、しばしば「証券系シンクタンクにいながら、良くここまで言いたい放題、好きなことやってこられましたね~。」「大和は懐が深いな~」「良くつぶされなかったですね」などと言われます。確かに外から見るとそうかもしれません。シンクタンク研究員は自由に研究するように見えても、グループ企業の意向から逸脱するのは難しいケースが多いですから。
また、CSRや環境の仕事を希望している就活の学生や若い社会人からは、「どうやったらCSRの仕事ができるのですか?」とも訊かれます。
でも私は、勤めている会社や金融業界に楯突くつもりでやってきたわけでも、CSRにつくために頑張ってきたわけでもありません。ただ、他の人とは若干目の付け所が違うというか早かったとは思います。地球環境問題は経済活動とはかけ離れていると思われてきた80年代から地球環境問題を、社会貢献・メセナと思われてきた90年代にCSRを、そして宗教団体や社会運動家の特殊な投資と思われてきた90年代のSRI(そして今ではESG投資といわれますが)も、どれも絶対に今の世の中を救うために必要不可欠、という一念で、目の前の仕事をしてきただけです。

どうやって環境・CSRを仕事にするようになったか

そうして、気が付いてみたら今年で社会人30年になります。入社当時30年も勤め続ける先輩をみて、30年なんて全く想像もつかないことでしたが、あっという間でした。やりたいこと目標があるのでひたすら前を見続けてやってきましたが、ここ10年程後輩たちや若い世代の人たちにアドバイスやサポートをすることが増えてきて、いつの間にか自分が教わるより教える世代になってきたということも認識するようになりました。この100名山も、諸先輩が多くいらっしゃる中で、多少なりとも後輩のお役にたてばということで書くことにしました。

近代経済学との出会いと失望

私が環境問題に目覚めたのは21歳の時です。大学3年になり専門課程でマクロ経済学を学び、アダムスミスのいう、市場メカニズムは「神の見えざる手」に導かれている――つまり需要曲線と供給曲線には経済取引に必要な情報すべてが盛り込まれている、需要曲線と供給曲線の交点は、世の中にとって最適な経済状態を示す、という市場の理論を学び、市場経済とは凄いものだ!と素直に感動しました。

しかし、勉強していくうちに教科書の一番最後に、実は価格が付かない外部不経済というものがあって、それは需要曲線にも供給曲線にも入ってない、とチラっと書いてあるのをみつけたのです!価格メカニズムにはすべての情報が盛り込まれているのではないの?入ってないものがあるっていうのを最後に言うのは後出しジャンケン。ひどくない?と愕然としました。ちなみに、公害が社会に与える被害のように市場で価格が付かず取引ができないコストは市場の「外」にあり内部化できないので「外部不経済」と言います。つまり市場では、大気汚染や水質汚濁、森林破壊、農薬による土壌汚染などが周囲の環境や社会にもたらすコストは「計算できない」。だから市場経済の中では「とりあえず無いもの」ということになっています。そしてそれらは現実的には存在するにもかかわらず、計算できないという理由でコストゼロとされ、その上で今の経済学のフレームワークが出来ていて、その中で市場参加者(われわれ)が経済的な意思決定を行うのです。

例えばサンゴ礁の美しい海のリゾート開発計画。リゾートによる経済効果は試算できますが、反対派は「サンゴ礁は生態系維持に不可欠!海洋生態系の多様性が失われる、その価値は計り知れない」というような定性的あるいは非経済的な情報を根拠にするしかありません。どうしてもリゾート開発の経済効果といった金銭を示す推進派に多くの場合押し切られてしまいます。環境破壊という「コスト」が存在しないのなら、経済メリットしかないリゾート開発に反対はしないけど、現実にはサンゴ礁は被害をうけて、生態系は破壊されるというコストは存在する。ただし、そのコストには価格が付かない。でも計算ができないから「無いこと」にするというのは、学問としてあまりに不誠実ではないか!と一気に不信感でいっぱいになりました。こんないい加減な理論が学問として幅を利かせているわけがない。しかしなぜか私のような疑問を持つ声は周囲から聞こえてこない。

「計算できないもの、都合の悪いものは無いものとして、先に進む」というスタンスで良いと思う人たちが圧倒的。そして、環境へのコストは経済的には「無いもの」なのでそれを修復しようというインセンティブも生まれません。もっとも市場メカニズムは不要なものではなく、計算できるものを取引する上では大変有効かつ合理的な手段だし、現在のさまざまな経済統計などは今の経済を計測する上で不可欠です。しかし、その有効性ばかりに目がいって、不都合なことに目をつぶるスタンスはいかがなものか。特に大学の先生と言われる人たちの言動を見ていると、立派な学問といいながら、結構ご都合主義でいい加減なように見えてきました。学問とは真実を追求することだと思っていたのに、少なくとも経済学においては意外と面倒なことは避けてテクニカルな世界に逃げている学者や学生が多いのではないか。そのように見えてきて経済学に嫌気がさしました。
しかし、単に嫌いになって済む問題でもないのです。今の経済が環境問題を「無いもの」にしつづけて経済優先で環境破壊をつづけていれば、それは知らず知らずのうちに溜まって結局重大な環境問題となって人類に襲い掛かるのではないかという恐怖を感じるようになりました。どちらにしろ今の経済の仕組みから私たちは逃れることが出来ないのですから。30年以上前には、この環境が逆襲してくるのではないかという懸念に対しては「まさか、そんな大げさな」と言われましたし、公害問題とは技術で解決できる問題なので経済とは関係ないとも言われました。つまり、私の考えはほとんど相手にされなかったのです。現在であれば中国のPM2.5や水の問題など環境をないがしろにしたツケがどれだけ高くつくか、悲しいことですが納得されると思いますが。

そこで私は、公害や環境破壊は、経済的な意思決定プロセスに環境コストが反映されない市場経済の問題だと考えるようになりました。そしてそれを防ぐには「無いもの」とされた環境のコスト、外部不経済を「あるもの」(内部化)にして市場経済の中に存在を認めさせればよいのでは?環境の価値を内部化する環境経済学という新しい分野をめざそう。そういう思いで大学院に進学し修士論文では、環境税と排出権取引をテーマにしました。しかし80年代当時、経済学の中で環境経済はあまりにマイナーなテーマであり、まともな分野として認められておらず、文献をさがすのにも苦労しました。そして指導教官には「環境経済なんかやっていても大学にはポストがないぞ」とアドバイスされる始末。しかしその教官はその10年後環境税の本をしっかり出していました。
大学院では修士後の将来について、通常だと海外の大学院で博士号を取るのが一般的なコースでしたが、学問として成立しておらずそれを理解する先生がいない環境経済専攻で博士課程にすすんでも生産的な研究ができるのかどうか?主流の経済学のご都合な市場至上主義にも辟易としていたし、実際の経済の仕組みを変えたいのに実態経済とは離れた象牙の塔のなかで、抽象的な市場メカニズムの議論に終始しても問題解決にはつながらないと考え、社会に出て働くことにしました。

大学院から環境問題にかかわるために証券会社へ

そして、環境問題が市場経済の失敗ならば、市場経済を一番勉強しやすいところはどこか?経済学が想定する完全競争市場に一番近いのは株式市場ではないか?だったら証券会社が良いのでは?と大和証券に入社することにしました。しかしそれは、ある意味表向きの就職理由です。もう一つの本当の理由があります。当時は、機会均等法施行直後の時代。女性の大学院生を採る企業はごく稀でした。その中で証券会社は、銀行などに比べ男子学生の人気が無く、女性に門戸を開いている数少ない業種だったのです。

ご縁があった大和証券に86年に入社して最初に配属になったのは外国株式部でした。そこで国内のお客さまむけに外国株式の売買をサポートする部署で海外マーケットの情報発信をしていました。当時、日本経済がバブルに浮かれ、NTTの上場を受けて株式市場は急騰していくのをるのをしり目に米国はじめ海外市場の動向はぱっとしませんでした。そして入社2年目の87年には、米国市場の大暴落―ブラックマンデーを経験しました。当時日本国内はバブルがどんどん大きくなっている最中でした。そのバブルに浮かれた日本市場をしり目に海外市場は暴落するという、天国と地獄両方を目の当たりにして、市場というのは「恐怖」と「欲」という二つの大きな感情の綱引きによって支配されるものだということを体感しました。もちろん投資の現場では精緻な投資理論は沢山あって、通常モードの場合はほぼそのセオリーにもとづいて動くのですが、暴落やバブル相場を突き動かすものは、つきつめると欲と恐怖ではないかと思っています。

企業を環境面から評価するという新たな試み

しかし、日本市場のバブルもご存じの通り91年にははじけました。ちょうどその時期に海外の投資家向けに英語で企業レポートを書くアナリスト業務に異動することになりました。そこで徐々に企業分析に慣れていくと、企業を財務面だけでなく環境面で評価することが将来必要になるのではと考えるようになりました。外国株式部時代には仕事が忙しくて志していた環境の勉強ができなかったのですが、企業の環境評価という新しい課題に取り組むべく92年ごろからバルディース研究会という企業の社会的責任について勉強するアフターファイブの有志の会に参加し、課外活動として環境経営に関わるようになります。この研究会は企業の環境担当者や会計士など環境と企業活動をどうにかしてつなげたいという志のある市民団体でした。そして94年には「グリーン・ポートフォリオのすすめ」という環境面で企業を評価した研究成果を発表しています。現在のSRI、ESG投資のはしりです。そして、この活動を課外活動だけでなく、今の会社の仕事に生かしたい。と思うようになりました。

その頃会社ではアナリスト体制の大きな変更がありました。それまで私が所属していた大和証券には私が所属していた外国人向けに英語でレポートを書くアナリストチーム、シンクタンクの大和総研には日本の投資家向けのアナリストチームと二つアナリストチームがありそれぞれ独自にレポートを書いていたのですが、大和グループとして同じ銘柄に二人アナリストがいると当然意見も異なる。それは会社の姿勢としてよろしくないということで、アナリストチームを大和総研に移管し、すべてのアナリストは日本語でレポートを書き、そこに翻訳チームを作って翻訳チームが英語レポートを作成することになったのです。

私も大和総研に異動し日本語でレポートを書くアナリストになったのですが、そこは激務で、課外活動のバルディース研究会にもいけないような事態となりました。そこで上司にかけあい、時間に融通が利く翻訳チームに行くかわりに、空いた時間で環境の勉強をさせてもらうことになりました。社内的にはアナリストの格が上で、翻訳者はアナリストの下働き的な位置づけだったので、なりたい人はあまりいませんでした。
しかし私は翻訳チームに移ったことで、鉄鋼や化学などの素材産業から、自動車や電機などの加工組み立て、小売りなどのサービス業など多岐にわたる企業のレポートを読むことになり、様々な業界のビジネスモデルを理解が出来るようになりました。当時は人の書いたもの、アナリストとして自分よりレベルが低いレポートの翻訳業務なんて屈辱的だとも思いましたが、その経験は、その後企業の環境評価の仕組みを作る上では貴重な知識となりました。そして、それまで夢物語だった業務時間に環境セミナーや勉強会に出席することが現実となったのは嬉しかったです。入社から8年たち、やっと一部ですがやりたいことのスタートラインにたちました。

当時は翻訳チームでは上司との約束で空いている時間に環境の勉強をしていたのですが、会社の公式的な仕事はアナリストレポートの翻訳業務で、環境調査は継子扱いでした。私としても環境を仕事として認めてもらいたい。そこで97年に会社で発行している論文集に「環境経営の時代」という50ページの一大論文を書きました。それは社内でも多少注目されました。しかし、社内には「なんで翻訳チームが論文書いたのか。それも環境の」という批判もあり、上司は中途半端な活動をしている部下の扱いに困ったのでしょう。そこまで環境をやりたければ、ということで環境問題の案件も手掛ける可能性があるコンサルタント部門に異動になりました。

新たな部署では官庁の環境調査案件などの受託調査をする傍ら、外部の有志をあつめて環境金融環境評価の勉強会を立ち上げました。損保、政府系金融機関、生保、など多様な金融機関関係者で、環境金融に関心のある人たちの勉強会で、メンバーには日本初のエコファンドを立ち上げたグッドバンカーの筑紫みずえ社長もいらっしゃいました。99年にはグッドバンカーと組んだ日興アセットマネジメントが日本初のエコファンドを設定すると、金融商品には珍しいくらい社会的な関心が集まり、「エコファンドブーム」を巻き起こしました。当然大和証券でもエコファンドは注目され、数年後大和証券グループでもエコファンドを設定することになります。

これを機に、それまでずっと聞かされてきた「証券業務と環境は関係ないじゃないか!」という批判の声も消えていきました。さらに2000年以降、雪印の食中毒事件などの企業不祥事が多発するようになる中で環境経営やエコファンドにとどまらない企業の社会的責任全般(CSR)が、社会全体として経営課題としても浮上し、またそれを評価する社会的責任投資(SRI)も注目されるようになり、私の調査範囲も広がっていき、気が付いたらCSR、SRIの専門家というポジションになっていました。因みに、ダイバーシティ、女性活躍は2005年ごろから注目しているテーマです。環境問題は、長いことやっていますので、現在では地球温暖化、有害化学物質、リサイクル・循環型、生物多様性、自然資本などを手掛けるようになりました。社会的課題は、女性活躍だけでなく、人権、マイクロファイナンス、地産地消、ソーシャルビジネスなどに広がってきました。また、これらの分野への注目があつまるにつれ活躍する層も厚くなり、嬉しいことに若い人のあいだに私が担当している領域への共感が広がっています。

80年代から私が言い続けてきたことがやっと世の中に認められるようになった、と言えます。しかし、残念ながら今の状況はもろ手をあげて喜ぶわけにもいかないのです。今まで環境が大事といっても鼻でせせら笑っていた人たちも真剣に同意するようになるほど、今の地球環境の状況が危機的になっているからです。IPCCの一次報告書が出たのは1990年。当時は温室効果ガスによる気候変動はずっと先の話だったのですが、そこで例示されてきたような異常気象は日常的にみられるようになっています。例年にない豪雨や竜巻など、日本でもその異変は肌で感じられるようになっています。また国際的な環境NGO、WWFの調査によれば1970年から2010年の42年間で代表的な脊椎動物種は個体数で58%も減少したそうです。以前、ある高名な環境学者のつぶやき「環境学栄えて、環境が滅びる」をまさに地で行く展開です。さらに世界的な貧富の格差の拡大や政治的宗教的な軋轢も広がっています。
CSRもESG投資も賛同者が増えてきた今、それで満足するのでなく、油断するのではなく一層この考え方と活動を広げ、人類が地球環境をこれ以上破壊しないように社会の仕組みを変えていかないといけないのです。

消費者の社会的責任でもあるエシカル消費

こうした問題意識の中で、現在私の研究テーマのうち一番力をいれているのがエシカル消費です。環境経営、CSR、SRI(最近ではESG投資)はそれなりに歴史もあり、参加者も増えてコンセプトも確立されてきましたが、まだ発展途上というか生まれたばかりのテーマがエシカル消費です。

CSRが企業の社会的責任、ESG投資が投資の社会的責任とすると、エシカル消費は消費者・生活者の社会的責任です。具体的にはエコやオーガニック、フェアトレードなど製品自体の環境配慮や、途上国の生産者や取引先での環境人権配慮がされている商品を率先して購入する消費活動です。大量生産大量消費大量廃棄社会を動かすカギを握っているのはほかならぬ消費者なのです。消費者は大企業に比べると無力だとは言われますが、どんな企業でも消費者が買ってくれないモノは頼まれても作りません。ESG投資は、企業の環境対応やエコ商品の開発、人権配慮なども評価するのですが、どんな良いエコ商品を開発しても、それを消費者が買ってくれなければその企業の取り組みは評価できません。

逆に、企業がエコ商品を開発する→消費者が率先して買う→業績に結びつくので投資家も評価する、という好循環を作ることも可能です。また現在の経済システムでは、生産のサプライチェーンは地球を何周もするくらい長くなっています。スーパーの生鮮食料品の棚を見ても、ニュージーランド産のパプリカ、メキシコのアボカド、韓国のトウガラシ、モーリタニアのタコ、ノルウェーのさば、オーストラリアの牛肉。などなど。そして加工品となるとそのサプライチェーンは更に複雑になります。しかし、そのサプライチェーンの上流で人権侵害や環境破壊があっても、私たち消費者にはそんな過去はわかりません。それらの原料を使っている企業自体もそうした情報を把握していない、把握できないケースも多々あります。消費者に対してサプライチェーンでの環境破壊や人権侵害のない取り組みを促す、エシカル消費はこれからの持続可能な社会を作る上で欠かせない取り組ですし、誰しもが消費者なので、誰でも参加できる活動です。学校教育、消費者教育、先進的な百貨店などでもエシカル消費に注目して様々な取り組みが始まっています。

やりたいことを仕事にできた理由

私の社会人人生30年を振り返ってみると、最初の5年はつらくて何十回も会社を辞めたいと思っていました。ただ、本当に転職するため辞表を書こうかと思うと、まだやめるな!という声がどこからしてきたこと、つらい時には家族の励ましがあったこと、また同僚や上司が個人的に支援してくれたことから、辞めずにここまで来ました。
同じ会社でも別な部署で上司や先輩に恵まれず、パワハラ・セクハラ被害を受けていた友人からよく悩みを相談されていました。しかし、私は不思議とリベラルで紳士的な上司や先輩に囲まれ、そういうイヤな思いはほとんどしたことがありません。むしろ、環境調査は業務としては難しいが個人的には賛同すると応援してくれた上司が必ずいてくれて、振り返ってみると、あの時代雑草のような私を摘み取らずに育ててくれた彼らと、こうした上司が数多くいた社内の風土には感謝しています。

私が会社を辞めたいと思ったのは転職だけではありません。‘89年に会津の只見という豪雪地帯にログハウスを夫と手作りしたので、環境問題に理解を示さない都会の会社員人生に見切りをつけて只見に引きこもって翻訳の仕事でもしながら田舎暮らしをしたいと思ったこともありました。しかし、今自分だけ田舎にこもってしまうのは逃げではないか?と思って踏みとどまりました。本当に今の経済の仕組みを変えたいと思うのなら、そこから逃げだすのではなく、そのど真ん中にいて中から変えていかないと効果がない、と踏みとどまることが出来ました。まあ田舎に引っ込むには経済的な不安があったこともありますが。

なお、今まで私は常多くの人に理解されてこない少数派の世界で生きてきました。環境問題もCSRもESG投資も黎明期からかかわり、それを日本に定着させるために多少なりとも役に立ったかなとは思います。たとえて言えば密林を開墾して手作りで家をつくり、畑を耕作して、住みやすい環境を整えてきたという感じでしょうか。逆に私は出来上がったニュータウンのようなところ与えられた住宅にちんまり暮らすことはできない性分だったとも思います。

何を人生の判断軸にしてきたか。

こうした私が曲がりなりにもやってこられたのは、周囲の理解とサポートに加えて、以下の3つの事を大事にしてきたからだと思います。

①死ぬ時後悔するかどうか

今までは、キャリアの節目、ライフステージにおいて信念を優先させるか、目先の損得をとるか、つねに葛藤してきたのも事実です。環境という理解されない信念に取りつかれてなければ、社から与えられる業務に疑問も感じずまい進することができて、もっと日の当たるポジションにつけたはず、と同僚や先輩たちを見て何度も悔しく思ったものです。特に入社してから最初の15年くらいは環境では芽が出ないのではと、自問自答の日々でした。しかし、ある日ふと「信念をまげて目先の出世やお金を優先したら、死ぬ時にはどう感じるだろう?財産や地位なんて死を前にしたらどうでもよくなっていて、その時には、こんなことになるなら、信念をまげなければ良かった。と絶対に考えるだろうな~」と思いました。そうか、死ぬ時は何も持っていけない。自分の経験と思いだけ。だったら、死ぬ時後悔するかどうか、をこれからの人生の判断基準にしよう。信念を曲げて得た地位もお金も意味がない。そう開き直ったら、だんだん道が開けてきたように感じます。

②誰かのために

そしてもう一つ大事にしていることは、仕事をする際に誰かの為ということを優先すること。自分の地位や出世やお金を第一目的に行動すると、絶対に肩に変な力が入って上手くいきません。誰かの為(同僚の為、お客さんのため、部署の為、会社のため、家族の為)にと思ってやる仕事は熱の入りかたが違うのか、基本的に上手くいきます。
社内で他部署の担当者に、その部署の業務からすると絶対に喜ばれるはずという仕事をオファーしても全くスルーされることが結構あります。なんでやらないのかな~、と同僚に聞くと「自分の成績にならないからでしょ。」と言われてビックリしたことがあります。自分の直接の成績にならなくても部署としてプラスになること、お客さんが喜んでくれることやればいいのに~。「でも普通は自分の損得で仕事を選ぶものだよ」、とも言われました。そういう人が世の中には多いのでしょうか?でも私の経験から、自分の損得で動くと、100%成功したとしても損しないですんだレベル、ちょっとミスするとその分損したことになる。しかし、人のために仕事を一生懸命やっていると、その間神様が助けてくれるのか、気が付いたら想定していなかったものが自分に還っていることが多いと思います。

③良いものはとにかくシェア

最後に、気を付けているのは、情報や良いことはなるべく多くの人とシェアすること。
私は調査の仕事をしていたので、成果を上げるためには他の人が知らない情報を基にレポートを書いて注目を集めたいという発想によく出会います。だから研究員の中には情報源を人に明かしたがらない人もいます。たまに私もライバルにはこれ知らせたくないな~と思うこともありますが、考えてみたら私は自分の出世のために情報発信しているわけではない。社会に有用な情報だったらどんどん出すべきだろう。そのように考えて、あえて気前よく情報発信するようにしています。
また、新たに得た情報を、「そういえば営業のXさんにこれ伝えてあげたら喜ぶだろうな~」と思うとすぐに教えてあげないと気が済まない性分なので、おせっかいかもしれません。しかし、長い事情報を仕事にしてきて、情報というものには、出せば出すだけ集まってくるという性格があるような気がします。私もそれなりの立場になっているので多くの人から相談や情報提供をうけます。その中には独占したい誘惑に駆られる情報もあるのですが、なぜ情報を提供してくれた人がそうしたのかと考えると、その情報を最大限に有効活用してもらいたいからだろうと思い当たります。私が抱え込んでいたら、情報をくれた人は当てが外れたと思うに違いない。だったら私が信頼にこたえるには、情報を必要な人には出すべきだ。そういうスタンスでコミュニケーションをとるようにしています。そうすると、実はますます情報は集まってくるのです。あの人に言えば有効活用してくれる、と思われるからでしょうか。
情報は鮮度が命。抱え込んだ情報はあっという間に古くなります。そんなものはどんどん公開して、新しい情報を常に受けていればいいのです。ただ、そのためには新しい情報を的確に処理する能力が求められますが、それも研究員としてのスキルアップの訓練ですね。

以上この3つを行動原則にすると、ストレスもないし仕事も楽しくなるような気がします。

父の計らいに感謝

私の父は30年前の1985年8月日航ジャンボ機の事故に遭遇御巣鷹山で亡くなりました。昨年は30年目ということもあり大量のマスコミ取材を受けました。CSRを仕事にしているというと「父の事があったから、こうした仕事に就いたのか」とよく訊かれたものです。
最初は「環境問題へのかかわりは父の死の前からなので直接は関係ない」と答えていました。でもこれも振り返ってみると、
①4大証券の中で大和に勤めたからここまで来られた(野村証券は非常に統制が厳しいので自主的に環境の仕事を作るなんてことはまず無理だった。山一と日興は事実上無くなった)
②上司や同僚に恵まれていたこと。陰ながら応援してくれる人が少なくなかった。
③家族の理解があったこと。

そういうラッキーな巡りあわせの連続の中で泳がされていたことに気がつきました。そして、それは父が知らず知らずのうちにそのように天国で取り計らってくれたのだと。今ではそう信じています。生かされてここまでやらせてもらったことに深く感謝し、これからも出来ることを、おごらず卑下せず、感謝しながら淡々とやっていきたいと思います。