籔本 亜里(やぶもと あり)
ファイナンスクリニック代表/エイジング社会研究センター理事・代表幹事
- 東京武蔵野市生まれ。立教大学フランス文学科卒。
- California School of Professional Psychology修士。
- 『朝日新聞 beビジネス』(2002~2008)での長期連載では、弁護士等の法律家との セッションにより様々な問題解決を行った。
- 2006年、台湾のビジネス紙に“日本の新ビジネス5“として紹介、2007年にはドイツ国営テレビZDFにより取材を受け、スイスで開催の『世界エイジング&世代会議』でも注目を浴る。
- 『サンケイビジネ スアイ』等コラムでの提言活動のほか『ケーススタディで考える女性の生き方~夫と 別れるときのお金の本~』(河出書房新社)『ライフプランが資産をふやす』(日本経済新聞社)等著書共著がある
私は今、この稿の出だしの一節を、キューバに向かう空港へのリムジンの中で書いています。キューバ行きは、取材や会議等ではなく、自分が生まれた年に革命があり、医療や大学の無償化を実現した国の“いま”を、自分の目でひと目みてみたい、活気に満ち満ちているといわれる人々と生活を知りたい、という切なる思いから向かう旅です。
私は、「ファイナンスクリニック」の代表として日々活動をしています。また「エイジング社会研究センター」の理事・代表幹事をしています。
前者は、一つの窓口で法律から医療まで広範囲な相談に応じる機関として2001年に起業した組織。そして後者は、各分野の専門家の知恵と個性を生かして、社会の高齢化 に伴う様々な課題の解決を中心に活動しようという組織です。
20世紀、21世紀と技術やシステムは急速に進歩したけれど、解決すべき社会課題はなぜかますます多様化・複雑化し、増え続けているように思えます。逆に解決機関は単能化して、問題をかかえる人は、いったいどこに行ったら、この問題が解決できるのかが見えにくいケースが増えているように思えます。
私自身、小さいながらいくつか組織を立ち上げ、時に脳科学・認知科学分野の編集制作に関わったり、地域のケアシステムづくりなど現場の仕事にとりくんだりしながら、暗中模索を繰り返してきました。
とまれ、走り続けてきた人生を、この100名山執筆の機会に振り返ってみたいと思います。
1. 肝胆相照らす、社会の縁側のような家で
生まれは東京都武蔵野市、昭和30年代に三鷹の駅が木造駅舎だった頃の吉祥寺、祖母の営む下宿屋の二階で生まれました。出版社勤めから、開局と同時にテレビの仕事に転身した父親と、それを支える北海道育ちの大らかな母親がいて、引っ越しは数知れませんでしたが、どの家も、人が入れ代わり立ち代わり集まる家でした。 首相の訃報は、テレビや新聞よりも早く電話が鳴り響き、まもなく自宅の居間が即10数人の作戦会議の往来の場所になるような、「肝胆相照らす」という言葉が好きであった両親の言葉を地で行くような、そんな“社会の縁側のような家”で10代20代の多感な時期を過ごしました。
80年代前半のバブル期の華やかな私大の雰囲気には馴染めず、とはいえ留学は親に反対され、「思ったことがやりたければ経済が身を助く」と合点し、学生時代の三年間は国会図書館の嘱託として憲政資料室で過ごし、いつか海外に出るための資金を貯めていました。
2. 戒厳令下の夜に
そんな折、国際交流基金が日本で初めて開催したアジア映画祭に、一日仕事を休んで書いた感想文が入賞し、飛行機の切符を手にします。行先はスリランカでした。審査員に川喜多かしこさんがいらして、現地の監督さんに手紙を書いてくれました。映画と読書が何より好きだった私は心が高鳴りました。後先を考えずに現地へ向かいました。
公然と海外へと家を飛び出たところまではよかったのですが、折しも現地スリランカでは今世紀最大の民族衝突が勃発した年にあたります。滞在中、首都コロンボ郊外に火の手がおしよせるなか、現地の作家らと匿われ、焼け野原になった首都コロンボで、パンを買い求める長蛇の列に並ぶ経験をしました。
戒厳令、外出禁止令下にあった小さな南国の島では、夜になると数少ない外国人同士が身を寄せ合ってひとところに集まり、暗がりのなか一つ明かりを灯してアメリカンボイスとBBC放送を交互にラジオで聴きながら、今後の行く末をうらなう座談が行われていました。その面々のなかには当時コロンボ7区で作家活動をしていた『2001年宇宙の旅』の著者アーサー・C・クラーク氏や著名なインド人作家たちもいて、今でも忘れられない経験です。私はその後無事日本へと帰国しますが、スリランカ全土はその後26年間、内戦状態が続き平和とは縁遠い国となっていきました。
3. 自分再生(女性や高齢者の相談窓口をプロデュース)
2,30代までは編集執筆の仕事しか知らなかった私が、起業をすることになったのは2001年40代になってからのことです。
その間、海外取材中の家族を失くし、決して順風満帆とはいえない人生でした。が、いつも傍らには誰かがいてくださり、そこから運命的な出遭いの機会に恵まれ、子どもは成長して10代になっていました。
ITバブルがはじけ、構造改革、自己責任という言葉がさかんに言われ始めた時期でした。一般の人々の生活が、突然防波堤のない、荒波にさらされる予感のする時期。私自身が、不安で、後ろがないような空気感を、日本にいながらにして初めて感じていました。
法律家を訪ね歩き、税務の専門家を味方に、医療、住まい、ファイナンスに関わる各種専門家を集めて、一つの窓口で、弁護士、法務、税務加えて医療などの複数の専門家によるアドバイスを受けられる事業で起業したのはその時期です。
『自分らしいライフデザイン』『自分再生』などというキーワードを掲げ、デザイナーにも関わってもらって主に女性、高齢者とその家族に向けて具体的な情報提供をはじめました。
ファイナンスクリニックという最初にこしらえた法人の母体となりました。某新聞社が折しも女性の起業家を応援するキャンペーンを始めた頃で、そちらで最終選考で残り事業資金を得、日本各地の講演では、一人ひとりの実人生に専門家の智恵を生かそう、味方にしようと呼びかけていました。
自己責任だけが言われ出した時代、法務税務の領域の事柄は一般にはまだ難しく、その分野で市井の人々がセカンドオピニオンを受けるのはさらに容易ではありませんでした。
“お金の総合クリニック”そんなところが無かったのですね。
朝日新聞では、『お金の悩み 彼女の場合』という、家族の問題に関わる毎週の連載がスタートしたのもこの頃です。毎回一つの個人や家族の一大事に専門家がこたえるというスタイルで、腑に落ちる、平易な言葉を心がけ、誰にでも起こりうる事例を描き、わかりやすい言葉で専門家の説明が受けられる“場”を目指しました。一葉さんの四コマ漫画の人気も連れだって、幸い反響は大きく、紙面には連絡先を載せない方針と編集者と決めましたが、土曜に掲載されると月曜には事務所の電話がひっきりなしに鳴りました。
相談は多いときにはメイルや電話で日に4,50件寄せられ、なかには沖縄で商売を営む方や、アメリカから帰国時に郷里の親の家の相談、さらにはゴミ置き場の最高裁判決に役所から問い合わせが殺到しました。一人一人の身近な問題に対応する、縦横無尽な多職種連携のネットワークが当時はまだ社会に機能していなかったのです。
4. 銀座の街を走る
実際の相談の現場では、一人一人それぞれの人の人生に、様々な専門家のネットワークの智恵も力も活かしたいと必死でした。クライアントと共に一緒に走る伴走者を志しました。
当時設けた小さな相談室は銀座にあり、築地に行けば新聞社、歌舞伎座近辺に行けば馴染みの弁護士事務所があり、気がつくと、いつも重いカバンを持って銀座の街を走っていました。
週三度四度と出る入稿前のゲラに追いかけられて深夜まで家に帰れずにいた私にスタッフはよく付き合ってくれました。志のある司法書士や、裁判所を辞めてきた裁判官等も一時期机を並べ、相談室はいつも人の出入りで大賑わいでした。
連載は約五年半続きました。
「年金分割」法案が通った頃には、落語を聴いてやっと眠りました。パートナー女性弁護士に江戸時代の落語の人情ものを聴いているとなぜかよく眠れる、といったら、『私も“子別れ”きいてよく眠るのよ』と言いました。
言語は互いに日本語で話されているのに、紛争は国境上やスリランカにはなく、目の前の、此処が民族抗争の現場でした。
相談に応じながら、家族の問題は心を壊すのだということも知りました。医療連携をしましたが、薬を処方されるだけで話しを聴く時間は足りません。やがて私も大学院へ戻り心理を学ぶことになります。やはり根は起業家というよりもじっと見て調べて聴いて書く、手を動かず編集者気質だったのだと思います。
銀座は、戦前に復興局にいて作家で建築技師だった父方の祖父が、碁盤の目をひいたまちでした。
疲れたときには、そんな亡き祖父や母の面影を思い出しながら、ゆりかごに包まれるような銀座のまちを歩きました。
最も困難な時代の細腕繁盛記でした。
書いたり編集したり、が結局最終的に身を助けてくれたと思います。
5. 出遭い、そして学ぶ
当時出遭いのあった、応用脳科学研究分野の川島隆太教授をはじめとする脳科学者の方との仕事は今思い出しても楽しかったです。私は編集、制作をお手伝いさせていただいたに過ぎませんが、早朝のわずかな時間のやりとり、スカッシュでもするような所作で、文や翻訳をまとめ上げてしまう科学者の、卓抜した才能の仕事を目の当たりにしました。自分の興味から、エイジングや臨床心理に関わる仕事にも携わるようになりました。
まさに転機でした。
東北大震災があり、インターンとして出張していたクリニックでは、震災でトラウマを受けた子供たちと家族に関わるようになっていました。
いまでははっきりとよくわかります。
たとえ日本全国から反響があり、情報提供をしたとしても、相談者が地方から毎日のように電話をくれ、来談して訪れたとしても、一人一人の人間の生活は地域に根差してあり、高齢になればなおその地域で亡くなるまで、その土地、地域にある資源に深いところで関わらなくては、さいごまで伴走しなくては、ほんとうの支援にはならない、と知ります。
私は、夫が放送局から法曹の仕事に移り弁護士になったのを機に、私自身は一時拡げた相談室事業は縮小し、NPOをたちあげ、新規の相談はそちらのみとすることにしました。
私自身の小さな会社のほうは、新しい相談を増やすよりも、これまで深く関わったご家族の変化を継続的に支える事業に切り替えました。
6. 超少子高齢社会、処方箋は一人一人の手に
超少子高齢社会として、起こりうるとされた様々な変化や、予測されたことは、一つ一つ現実のものとなってきています。
“自分らしい生き方”、私たちが掲げた標語のような一行は、いまやどこでも誰でもが口にする陳腐な言葉となり、ここ十年で多職種連携も珍しい存在ではなくなり、日本全国に弁護士さんの数が増えました。
でも、いま、これからの時代は、まさにそうした生き方をさいごまで現実のもとできるようにするために、個人も家族も地域で継続した取り組みや連携にいかに繋がれるか、ということがなにより問われていると思います。
昨今、私は、北欧発の対話(ダイアローグ)等の処方箋と出遭い、あいかわらず学びと精進の毎日です。家族や人と人のあいだに対話はたとえ難しくても今以上に会話があれば、活き活きした社会の実現に一歩近づくでしょう。まちを健康にするプロジェクト等あたらしい試みの場に呼ばれれば足を運んで、対話が人々を癒す場等に関わるようになりました。
休みや機会があれば、海外へ。主に物のない、けれども精神性豊かな発展途上の国に出かけています。
そして、これはかつて南の島で経験した私のトラウマでしょうか。
少し遠いところからの視点も持ち合わせて、“未来”を、“家族”を見ていきたいと思います。