永井 裕美子(ながい ゆみこ)

株式会社LiB取締役・一般社団法人ポテンシア共同代表

  • 京都府京都市出身
  • 1981年、関西大学社会学部社会学科卒業後、富士ゼロックスに営業職として入社。企業派遣留学により、1991年 コーネル大学産業労働関係学修士課程修了、グローバル人材育成、人事制度改革を担当。
  • 2000年、外資系企業に転職、GEキャピタルリーシング、エルメスジャポン、アボットジャパン等で、執行役員人事本部長、人事総務担当執行役員、日本・韓国担当人事責任者などを務める。
  • 2014年に非営利セクターに転じ、公益社団法人日本フィランソロピー協会常務理事を経て、米国非営利法人ユナイテッドウェイ・ワールドワイドの日本担当ディレクターとして、企業のCSR活動を推進。
  • 2019年4月、女性のライフキャリア支援事業を行う株式会社LiBに参画。同年7月、セクターを超えた女性のネットワークづくりと女性のリーダーシップ開発をテーマに活動する一般社団法人ポテンシアを設立し、共同代表を務める。
  • 趣味は、旅行(60か国+)、音楽、スポーツ。また、約30年、様々な分野のNPOの支援を継続。

専業主婦志望から、時代の流れの中での気持ちの変化

私が社会に出たのは、1981年。男女雇用機会均等法が施行される数年前です。当時は、女性は25歳までに結婚して当然という風潮があり、「25過ぎればクリスマスケーキ(25過ぎると売れ残りの意)」などという言葉もありました。就職活動においても、「3年は勤めてください。」といわれることが当たり前で、それだけ3年以内に仕事を辞める女性が多かった時代です。

私自身も、幼少のころから「お嫁さんになる」「料理の上手なお母さんになる」「家事をテキパキこなすスーパー専業主婦になる」という思いを抱きつづけていたので、当時は「仕事を長く続ける」という発想すら持っていませんでした。

ただ、「3年は短すぎるので5年は勤めたい」、「数年しか勤めることができないのなら、せめてその間はやりがいのある仕事をしたい」という気持ちで、就職活動に臨みました。そして、「営業なら、成果がみえるのでやりがいがあるに違いない」と考え、女性のカスタマー営業職を採用している富士ゼロックスに入社したのです。

長いキャリアの中でも、最初に訪問したカスタマーから受けた言葉は、今も忘れることができずにいます。「若い女性をうちの担当にするなんて、ゼロックスはうちを馬鹿にしている!他社は、40代の課長が担当してくれているのに。」と、コピーサービス業を行っている女性代表からいきなり大声で怒鳴られたのです。「申し訳ありません。」若いこと、女性であることを謝りました。「3ヶ月だけ担当させていただけないでしょうか。それでどうしてもだめなら、会社にご連絡ください。」とお願いしました。足しげく訪問し、導入いただいている機械の掃除をしたり、参考になると思う情報の提供などを行っているうちに、仕事の悩みをお話いただけるようになり、1年後に新たな契約をいただくことができました。

女性ということを理由にマイナスからスタートしなければいけない場合もありますが、女性であることが珍しく、普段は門前払いなのに面談してくださるお客様もいらっしゃいます。どっちが得か、損か考えても、性別や年齢や経験を変えることはできず、「与えられた環境でベストを尽くす」「自分がコントロールできることに注力する」という、今もとても大事だと思っている行動原則は、このような経験を通して身についたように思います。

仕事はどんどん面白くなってきていましたが、何年か勤めたら結婚して専業主婦になるという思いは変わっていなかったので、終業後は、いわゆる花嫁修業としての「料理」「華道」「着物の着付け」などのお稽古事やテニス、編み物などの趣味にいそしんでいました。

しかし働き始めて4年目、1985年に「男女雇用機会均等法」が制定されることになりました。「もしかしたら、結婚しても辞めずにこのまま仕事が続けられるようになるかも」「産休で休むことになっても、会社にぜひ戻ってきてほしいといわれるような会社に必要なスキルを磨く必要がある」と考え、社内の海外留学制度を受けて、英語と専門性を身につけようと思いました。

制度があることを知って、周りの人に相談したとき、最初は「会社が女性に投資することはないだろう」と一笑に付されました。しかし、きっとこれから時代は変わってゆくと信じ、「だめでもともと。皆がダメだと思う今がチャンスかもしれない。」と思いチャレンジすることにしました。

社内選考は、3回まで受験できることになっていましたが、1年間という期間を決め英語と時事問題を勉強することとし、それでだめであれば、すっぱりキャリアを諦めようと思って臨みました。「1年間死にもの狂いで頑張って、社内の試験も受からない程度では、この先も大した仕事はできないだろう。仕事をする価値がない。」そのぐらい自分の中で腹をくくった、チャレンジでした。英語がとても苦手だったので、途中何度も挫折しそうになり、「やっぱり無理かなあ」と弱音を吐いたとき、励ましてくれたのは母でした。「一年頑張るって言っていたのに、情けないなあ。」後にも先にも母から厳しい言葉を受けたのはこの時だけです。「嫁入り前のお嬢さんを海外にいかせるなんて」そんなことがご近所でささやかれる時代でしたし、何より心配性の母は、2年もの海外生活、できれば行ってほしくなかったと思うのですが、「世間体」を気にせず、チャレンジを応援してくれた両親には、とても感謝しています

人生を変えた海外留学、そしてアメリカで女性が「当たり前」に活躍する姿を見て

こうして無事、社内試験に合格し、海外留学のチャンスをいただきました。当初は、営業経験を活かしてマーケティング専攻をと思っていたのですが、当時、労働者派遣法が施行されて、世の中の働き方・雇用環境が大きく変化するであろうことにとても興味があり、人事管理を学びたいと思いました。ゼロックスの先輩から、米国駐在の人事の専門の方を紹介いただき、その方から人事領域で全米トップといわれているコーネル大学大学院を紹介いただきました。キャリアを振り返ると、自らも努力したと思うことももちろんありますが、キャリアの節目で助けてくださった方が必ずいらして、「ペイフォワード」こうして受けて来たご恩を別の形で次の世代へご恩送りをしたいと思っています。

大学院は、2年のプログラムを1年半で終え、その後半年XEROX社でOJTをと会社からいわれていて、とにかく勉強・勉強の日々でした。が、そんな中、苦手な経済学を教えてもらうという縁で、博士課程で経済学を学んでいた現在の夫と知り合い、留学中に結婚しました。私は、小さいこと、たとえばスーパーでどちらの醤油を買うかなどはくよくよ考えたり、迷ったりするのですが、留学、結婚、転職などの人生においての大きな決断は、自分でも驚くぐらいスパッと決めることができるようです。ロジックだけでは決められないこと、そして正解がないことのほうが後悔もない、そんな気持ちなのでしょうか。

大学院卒業後、米国ゼロックス社の人事部門で働きました。そこで目のあたりにしたのは、女性もごく当たり前に仕事で活躍している風景でした。

営業マネージャーの女性比率は約50%、人事のトップである役員も女性、上司の人事マネージャーも女性でした。また、当時からワークシェアリングも進んでおり、子育て中の女性2名が、二人で一つのポジションをシェアされていました。「あれ?ここキャシーの席では?」次の日に違う女性が同じ席に座って仕事をされているのをみて、頭の中が「?」マークだらけになった記憶があります。30年経って、ようやく日本も時短や副業などのフルタイムではない働き方も定着しつつありますが、30年のギャップがなかなか埋まらないことには忸怩たる思いがあります。

ある日、直属女性上司のスカートのファースナ―が開いていているという出来事がありました。優秀でミスをしないイメージのその上司の「うっかり」に、頭をガーンと後ろから打たれるような不思議な感覚に捉われました。とても大げさな表現ですが、「女性のマネージャーも、普通の人間なのだ。」という当たり前のことに気がついたのです。それまでは、「女性は男性の3倍頑張らないとキャリアを続けられない」というふうに思っていました。女性なのに働くのだから、特別でないといけないと。普通の男性が働いているように、普通の女性が働いてもいいと、良い意味で肩の力が抜けた出来事でした。そしてまた、この出来事は、仕事も家事も完璧に行わないといけないという「捉われ」からも私を解放させてくれました。 何もかも完璧なんて無理。当面は、夫とも別居結婚となり、いい妻にはなれないかもしれないけれど、今は「当たり前に」長く働き続けられるよう仕事を頑張って、人事という専門性を磨くという決意ができました。そして、夫もそんな考え方と関係性に共感してくれました。

40歳での転職決意とNPO活動

海外から帰国後、富士ゼロックスで、グローバル人材育成や、人事制度設計など、人事の分野でキャリアを積みました。コンピテンシーをベースとした新人事制度の設計から導入までなど、当時としては革新的であった大きなプロジェクトにも関わることができ、とても充実した日々を送っていました。

そんな中約8年経って、転職をしようと思ったのは、「人事」としての仕事の幅を拡げ、深めたいと思ったからです。人事には、採用、人材開発、人事企画など、経営戦略に近く一見華やかに見える仕事がある一方で、現場での人事オペレーション、労務管理や組合との交渉など、厳しい面が必要な仕事もあります。当時、富士ゼロックスでは、人事に携わる人員が150名ほどいて、そんな中で私自身が担当する分野というのは限られており、また厳しさが必要な仕事は、50代の部長が担当されており、私に任せてもらうには、まだまだ時間がかかるとも思いました。
富士ゼロックスでは、環境や人にも恵まれていたので、焦らずずっと勤めていてもよかったと思います。が、キャリアを急ぎ、転職を決めた理由は、2つあります。

ひとつめは、30代後半に、富士ゼロックスの研修の中でたてたライフプラン。この時に、「50才でリタイアして、NPOで第二の人生をスタートする。」ということを目標に掲げたことです。50才を目標にしたのは、当時は、60才で定年退職してから新しいことをスタートするのは難しいと思っていたことと、50才からスタートすれば、約20年間、第二のキャリア人生として、まとまった仕事ができると思ったからです。そのために、営利セクターで働くのは、あと10年。その中で、「人事」として納得のいく仕事をするには、急ぐ必要がありました。

NPO活動との出会いは、アメリカから帰国直後、32歳の時に、ゼロックスの先輩の紹介で、米国発祥の女性のリーダーシップと奉仕をテーマに掲げる「パイロットクラブ」の支部である「コスモス東京パイロットクラブ」に参加したことです。様々な業種の女性のリーダー達と多くのボランティア活動に携わりました。この活動では、仕事でのスキルや経験を生かした形での寄付金集めのためのイベント、チャリティーランの開催、障がいについての理解を深めるワークショップやセミナーといったものから、老人ホームでのシーツ交換、精神障がいを持った方々が働くカフェでウエイトレスをするなどといった活動も行っていました。

本業の仕事もどんどん忙しくなる中で、夜中に行う事務作業や週末のボランティア活動は大変ではなかったというと嘘になりますが、若くて体力もありましたし、何よりこの活動を通した多くの出会いと学び、そして刺激はなにものにも代えられないものでした。

当時会社では、管理職の女性の先輩はほとんどいらっしゃらなかったのですが、この活動では、企業で管理職を務める女性や、自ら会社を経営されている女性の先輩から、プロジェクトの進め方、チームマネジメントやコミュニケーションなどの仕事に関すること、様々な業種や職種のこと、そしてプライベートな面でも、ファッションやライフスタイル、年齢を重ねていく上での健康の悩みや親の介護のお話など、多くの教えを乞いました。

そして、会社で仕事をしているだけでは見えなかった社会課題を知り、仕事で培ったスキルやノウハウを活かして、その社会課題解決をはかる活動をしたいと思い、第二の人生はNPOセクターでと心に決めたのです。

もうひとつの転職を急いだ理由は、タイミングです。折しも、外資系企業のM&Aなども活発に行わる中、英語ができ、グローバルな人事手法を理解している人材のニーズが高まり、外部からたくさんのお声がけをいただくようになっていました。年齢もちょうど40才を迎えるタイミングで、新しい環境に飛び込むには、最後のタイミングではないかと思いました。 時は、2000年、人生80年のちょうど折り返し地点。「いまでしょ!」というはやり言葉のずっと前ですが、まさにそのように思いました。
もちろん、英語で仕事ができるだろうか、20年働いてきたゼロックスのカルチャーと違う世界でちゃんと成果が出せるのだろうかなど不安もありましたが、どうなるかわからないことを悩むよりは、やってみて失敗したらしたで、また別の道を選べばいいといった思いがありました。自信があるわけではなくて、あまり自分に大きく期待していないというか、失敗してもしかたない自分を受け入れることができているから、チャレンジがあまり怖くないのではないかなと思ったりしています。

2つの異なる文化の企業を経験して

2000年ジェネラル・エレクトリック(GE)に転職しました。GEでは、「女性」ということを気にすることはまったくなく、男女や年齢にかかわりなく、成果を上げることができる人を登用するという考え方だったと思います。会社が勢いよく成長している時期でもあったので、多くの仕事を物凄いスピード感でこなし、「仕事のご褒美は仕事」というカルチャーを満喫しました。

約5年間、ほぼ半年毎に、これができればじゃあこの仕事も、次はこの会社の人事を、総務も、広報も、韓国も、アジアもといった形で仕事の範囲が拡がりました。
希望どおり、ハードな意思決定が必要な仕事にも携わり、次々と課される「ストレッチターゲット」といわれる高い目標を達成して味わう喜びを、ゲームのように楽しんでいた気もします。ただ、仕事が楽しすぎてあまりにも長時間働き、また海外出張なども多く、ゼロックス時代から10年続けていたパイロットクラブのボランティア活動は、継続が難しくなりました。
ここから、NPOとの関わりをボランティア活動から「寄付」という形に変えることにしました。 よく、「お金じゃなくてボランティアで汗をかかなければ」といわれることがありますが、NPOには資金が必要です。自分のできることで貢献できればいいと思いますし、「寄付」は、自分が解決したい社会課題に対して自分ではできないことを他の方にやっていただくということだと思っています。

社会活動に時間が取れない中、趣味と社会活動を結びつける工夫も考えました。パイロットクラブの活動で知り合ったミュージックセラピストでもあるハーピストの先生が、知的障がいを持った方々にハープを教えられるということを知り、その活動のお手伝いをしながら、自らも一緒にハープのお稽古をスタートしました。この活動は、約10年間、忙しい日々の中で、懐かしい童謡のアンサンブルをするなど、貴重な癒しの時間となりました。

忙しくも充実した日々を送っていたのですが、ある日突然、人生を考えるショッキングな出来事が起こりました。元気だった母が突然癌で余命宣告を受けたのです。それは、今までがむしゃらに仕事をしてきた私が、ハッと立ち止まる機会でした。人生80年だと思っていたけれど、60代で終わってしまうこともあるのだ、と。

ぼんやりと今のままでいいのだろうか、数字を追いかけ、次々と仕事をこなし、でも、人生にはそれだけでない何か別の世界があるのではないか、そんなこと考えていたときに、絶妙なタイミングで、フランスのラグジュアリーブランドであるエルメスからお話をいただきました。約一年、必死の看病もむなしく母は旅立ちました。人生にこんな辛いことがあるのかと思うほど、深い哀しみに包まれましたが、同時に母が何か時限を超えた世界を教えてくれたような気もしました。そして、私はエルメスでの仕事をスタートすることに決めたのです。

そうして移ったエルメスでは、GEとは全く違うカルチャーがありました。最初の出張では、PCを渡されることもなく、また何かプロジェクトを与えられることもなく、「パリを歩いて、感じなさい」と言われ、一週間靴がすり減りだめになるほど、街を歩きまわりました。そして、歴史を感じる街並みの中で、アンティークやアートに触れたりしているうちに、忘れていた「感性」や「感情」が自分の中で動き出していくのを感じました。忙しさに追われ忘れかけていたクリエイティビティ、数字では表せない何かが徐々によみがえる感覚がありました。

そして、「人生の一部として仕事があり、仕事イコール人生ではない」「長い歴史の中にの1ページに、今私たちはここにいる」そんな当たり前のことに、このタイミングで気が付くことができました。人生100年時代といわれる現代の老後の過ごし方、そしてSDGs、持続可能な社会を作るための根本となる視点だと思います。

フランスから見た日本のすばらしさを再認する機会にも恵まれ、歌舞伎、能、日本の伝統工芸品などを楽しむことや、このとき出会ったオペラは、今の私の大切な趣味の一つとなっています。

人事の仕事としては、もちろん通常の人材育成や人事制度設計といったことも行ってきましたが、「お客様にワクワクした気持ちをお届けするために、社員もいつもワクワクした気持ちでいられるには」というアイデア出しや、ジェンダーについては、マイノリティである男性社員をいかに増やすかといった今までとは違う人事のテーマにも取り組みました。

こうして40代は、スピード重視・合理的なアメリカ企業GEと、文化や歴史を重んじ、100年という視点で物事をみるフランス企業エルメスという非常に両極端な価値観に触れ、今後の働き方、生き方について深く考えることができる貴重な経験を積むことができました。

営利セクターから非営利セクターへの転身

エルメスで5年経ち、ライフプランで設定した50歳を迎えるタイミングで、エルメスを退職することにしました。まだ具体的に、非営利セクターで何をテーマに活動するかが絞れてはいませんでしたが、仕事上の大きな山を越したタイミングでもあったことと、自ら立てたライフプランを守りたいという気持ちもありました。
退職を決めた直後、ミャンマーに住んでいる友人から、突然電話がありました。「ミャンマーの子どもの教育を支援するNPOの日本の事務局をやってくれる人を探しているのだけど、永井さんは忙しくって当然無理よね?」すぐに、ミャンマーに行き、支援する村を訪問し、日本事務局を引き受けました。しかし、実際にスタートしてみると、この活動を本業とするには、準備不足だと感じる多くの出来事に遭遇しました。自分で決めたライフプランを変更することに、悔しい気持ちもありましたが、人事の仕事もまだまだやり切れてないという気持ちもあり、企業で人事の仕事を継続しながら、NPO活動をボランティアで継続する、というスタイルに切り替えることとしました。

そして、ヘルスケア事業を行う米国企業であるアボットに入社し、日本と韓国の人事を担当しました。アボットでは、医療機器、医薬品、診断薬、栄養剤など製品や事業のライフスパン、そしてそこで働く社員の特性なども違う複数の事業部に対しての人事の統括という仕事で、グローバル企業の人事の醍醐味といったことを数多く経験しました。また、企業の買収やそれにともなうインテグレーションなど本社からのリクエストに答えるだけでなく、日本独自のテーマを設定し、社員の働きがいのある組織づくりや障がい者雇用の推進などにも注力することができました。約4年間、最後に分社化という大きなプロジェクトを終え、人事の仕事をやりきった感もあり、いよいよ、自分が社会課題解決に本腰を入れるべき時がきた、と思いました。2011年に起こった東日本大震災。未曽有の大災害の復興は、政府や企業だけで担えるものではなく、NPOやボランティアといったサードセクターの力がますます必要になっている時でした。

2014年に非営利セクターに移り、公益社団法人日本フィランソロピー協会および米国の非営利法人ユナイテッドウェイ・ワールドワイドの日本担当として、主に企業のCSR活動として行う復興プロジェクトや、子どもの貧困などをテーマにした支援活動を行ってきました。さまざまな活動を通じて、多くの課題やその課題と戦っている人たちに出会いました。そして、深刻な日本の社会問題の多くは、女性が被支援者になっていることが多く、また子どもの貧困にしても、ドメスティックバイオレンスにしても、女性が経済的に自立することが難しいがゆえに、つらい状況から逃れられなくなってしまっているということや、また日本における古い価値観や既成概念が、実は実質的な金銭的な苦労と同じくらい彼女たちを苦しめているのでは、と思うようになりました。

社会課題の解決のためには、資金が必要。そのために企業に寄付のお願いをしてきましたが、問題を解決するためには、「かわいそうだから」という同情の支援ではなく、「根本的なことを」「具体的に」行わなければならない、という強い思いを抱き始めました。

60歳からの新たな挑戦
~営利と非営利の枠を超えたジェンダーイシューへの取り組み

約5年間の非営利セクターでの仕事をしたのち、ちょうど60歳を迎えるタイミングで、ソーシャルセクターでの起業を考えました。非営利セクターの活動で出会った友人と議論を重ねている最中に、同じタイミングで女性のライフキャリア支援事業を行うスタートアップ企業LiB(リブ)との出会いがありました。

「自己実現を望み努力する人には性差の無いチャンスがあって然るべき」「女性の活躍は、女性のためだけでなく日本の原動力!」という代表 松本のメッセージが、その時の自分に突き刺さり、すぐに参画させていただくことを決めたのです。そして、予定どおり、一般社団法人ポテンシアも立ち上げました。

リブは、女性に特化した転職支援の事業を中心に行っており、ポテンシアは、セクターを超えた女性のネットワーク構築と女性のリーダーシップ開発をテーマに活動しています。

日本のジェンダーギャップ153か国中121位。他の先進国との間に歴然とした差がついている中で、なぜ多くの人はこの有様を恥ずかしく思わないのだろう?という危機感に似た気持ちがあります。「女性活躍」ということが、「こういう時代だからやらなければいけない」といった文脈でしかとらえられておらず、今の状況がまずいとか、恥ずかしいとか、女性が日本の経済にも大きく影響力をもっていると心の底から思っている経営者はまだまだ多くないように思います。

「ジャパン アズ ナンバーワン」日本的経営が世界から脚光をあびた1980年代から仕事を続けてきて、そして米国やフランスの企業に勤め、少し外側から日本を見てきて、今、世界の日本への期待が大きく下がっているということを肌で感じています。そんな中で、昨今取りざたされている企業の不祥事やコンプライアンスの問題は、単一的な価値観や物の見方が大きく影響しているのでは、と思います。

日本社会のジェンダーギャップを解消していくためには、「無意識の偏見(アンコンシャス・バイアス)」があることに気づくこと、そしてそれらが多くの「個人」「組織」のチャンスを奪っていることを知りチャンスを作っていくこと、そして、女性自身も「こうあらねばならない」という既成概念から脱却し、自分自身をリードする「セルフリーダーシップ」を習得することがとても重要だと思っています。

60歳にしてようやくたどり着いた人生の目標-ジェンダーイシューの解消、今までのあらゆる経験とスキルと人とのつながりを大事に、そして、時代の変化の波をとらえて、自らをアップデートしながら、次の世代に自信をもってバトンを引き継げるようにしたいと考えています。

立ち上げた団体「ポテンシア」は、可能性を表すラテン語です。「人は皆、様々な能力、可能性を持っていて、それらを最大限に発揮できるようにしたい。」長年人事の仕事・NPOの活動をしてきた私の根柢にあるビジョンです。

性別だけでなく、あらゆるダイバーシティ&インクルージョンを推し進め、皆がポジティブに自己実現できる社会を創っていきたいです。そのためには、営利と非営利の枠を超えた取り組みが、相互にプラスに影響しあい、より大きな成果を上げていけると信じています。

そして、課題先進国といわれる日本から、いつの日か世界へ、新しい価値観やビジネスモデルを発信していくという大きな夢もこれからがスタートです。