末盛 千枝子(すえもり ちえこ) 

児童図書編集者、元3.11絵本プロジェクトいわて代表・元すえもりブックス代表、国際児童図書評議会(IBBY)名誉会員

末盛 千枝子(すえもり ちえこ) 氏
  • IBBY(国際児童図書評議会)やJBBY(日本国際児童図書評議会)と深い関わりのある八幡平市在住
  • 彫刻家・舟越保武の長女

先日、と言っても、2021年暮れのクリスマスの前の日ですが、思ってもいない来客がありました。若いお坊さんとそのお母様です。
私が10年間お目にかかりたいと思い続けてきた方が、突然おいでくださったのです。あれは2011年の震災の年のことです。3月11日の震災の後、とんでもないことを経験したり、見たりした子供たちはどうしているだろうかと思って、いてもたってもいられませんでした。というのも、大切な人を失う経験があったからです。
その30年ほど前、私は子供たちの父親である最初の夫に突然死されました。子供たちはまだ小さく、6歳と8歳でした。小学校1年だった次男は、「僕のパパなのに死んだ」と言って泣いたのです。本当にそうです。自分の大切な人に死なれた時に、これ以上の言葉があるでしょうか。
震災の時、どれほどの子供たちが、こういう思いをしたり、見たりしただろうかと思ったのです。私は大学を卒業してから、ずっと子供の本に関わってきました。震災の一年前に、自分の出版社を閉じて、父の郷里の岩手に引っ越してきていたのですが、何かをせずにはいられませんでした。私は子供の時、終戦間近に東京から盛岡に疎開し、小学校は盛岡で通いました。ですから自分は”盛岡産”だと思っています。でも、子供の時の記憶は、あまりはっきりせず、ところどころ、うろ覚えの記憶がひょいと出てくるのでした。
絵本が集まれば、子供たちの手に渡るのは必ずどうにかなると信じて、息子に背中を押されるように知人たちにメールを送りました。かならずどうにかして渡しますから、絵本を送ってください、と書いたのです。すぐさま盛岡市の中央公民館が場所を提供してくれるということになり、昔からの親しい新聞記者たちも協力してくれて、あっという間に活動が始まり、大きなうねりのようになったのです。私は自分が言い出したのだったし、この活動の代表になるのは当然の務めでした。


(以下、「絵本プロジェクトいわてへの協力のお願い」(WEB「3.11絵本プロジェクトいわて」から抜粋)

絵本プロジェクトいわてへの協力のお願い

私は昨年の5月に、家族とともに父の故郷である岩手に引越しました。岩手山を望む美しい田園生活に感謝して暮らし、難しい障害を負った長男も、この地に来て初めて手厚く診て頂いております。ところが、この3月11日に、本当に恐ろしい地震が起きました。私どものところは内陸部ですので、数日停電したり、断水した程度でした。最初はラジオだけの情報でしたが,やがてテレビを見られるようになって、その惨状の凄まじさに言葉を失いました。その中で私自身の曾祖父の弟も、その昔、田老町の郵便局長だったそうですが、明治29年の三陸大津波で一家全部が亡くなったと、家族の歴史を今回初めて聞きました。
そして、長年にわたるIBBY(国際児童図書評議会)の活動を通して、戦火にさらされた子どもたちが誰かの膝に乗せてもらって、絵本を読んでもらうときだけ、おだやかな気持ちを取り戻せるということを知りました。 それは、各地で起こる災害のときも同じでした。
(中略)
いま皆さまにお願いしたいのは、新しくなくてもよいので、絵本を送って頂きたいということです。また、絵本を届けるためには活動資金が必要となります。少しづつお金も寄せられてはおりますが、まだまだ必要な額にはほど遠いのです。あまりに大きな被災地ですので、たくさんの方に寄付をお願いしたいと思っております。 私自身は2人の病人を抱えておりますので、自分では動けませんが、人と人を繋ぐことをしたいと思います。
(中略)
どうぞ絵本を送ってください。寄付もお願いいたします。幸い、東京におります次男夫婦やその友達もなんとしても手伝いたいと協力してくれています。彼らには、まず、私の手持ちの絵本を持っていってもらいたいと思っております。 どうぞよろしくお願いいたします。
2011年3月24日末盛千枝子
(なお、このプロジェクトは2021年に終了しました)

震災の直後に神戸から入ってこられた方たちが、とてもありがたいアドバイスをくださいました。まず、現場を見てくること、そして、団体に名前をつけることなどです。岩手で立ち上がったということはどうしても入れたいと思いました。私の両親はもう何年も前に亡くなっていましたが、彼らが自分のふるさとを襲ったこのような災害を見ることがなくてよかったと心から思いました。でも私たちが住んでいるのは岩手でも海沿いではなくて、山の方でしたが、数日は電気もつかず、何が何だかわからないのでした。それでもあの揺れから考えて、どこかとても近いところで何かとんでもないことが起こったのだということだけは覚悟していました。そして、電気がつくようになって、テレビのニュースが見られるようになった時の驚き。まるでCGのようでした。
本当に不思議なことでしたが、東京を離れる時に、もういろんな人に会うことはないと思っていました。ところが、この震災のおかげで、たくさんの友人たちが私のことを思い出してくれました。みんなが自分にできるのはなんだろうかと思っていたのです。それは私自身も同じでした。それで、この「3.11絵本プロジェクトいわて」が大きな動きになったのです。毎日毎日宅配便のトラックが、たくさんの絵本を入れたダンボールの箱を拠点にさせていただいた盛岡市中央公民館に運んでくれました。こういうときに、こんなにたくさんの人が、絵本をと思うのか、と自分で言い出しながら驚くほどでした。何しろ数週間で23万冊もの絵本が届いたのです。どんどん届く絵本を積み上げていると、時々大きな余震がきて、絵本の山が地滑りを起こしそうになるのでした。その絵本の仕分けは大変な作業でしたが、たくさんのボランティアがごく自然に手伝いにきてくれました。毎週日曜日にご夫婦でおいでになる方もありました。

あの若いお坊さんにお会いしたのはそんな時です。私が初めて被災地に入った 4月4日のこと。父たちの郷里だと思われる山田町の酷さも見ていってください、と宮古の幼稚園の先生に言われ、山田に向かいました。山田の駅の残骸で、若いお坊さまがどなたかと話しておられました。これが駅だったというのか、というほどひどい様子でした。この駅に来る前にも、何度かこの方をお見かけしていました。言葉にできないほどのひどい瓦礫の町の角角で、この方は丁寧に手を合わせ、頭をふかく下げて祈っておられました。断りもせずに失礼とはおもったのですが、今しかないと思い、勝手に写真を撮らせていただきました。まるで、『ビルマの竪琴』の水島上等兵のように神々しいと思いました。あとで、新聞にも記事が出たのですが、それによると、自分にできることはなんだろうか、自分には祈ることしかできない。でもそれが役に立つだろうかと悩みながら、それでもこれしかできないと思って、岩手県の沿岸の北の端の久慈から、宮城県との県境の石巻まで歩いて祈り続けようとしておられたようです。私はこのかたの姿を忘れまいと思い、こういう方がおられました、といろんな方に伝えました。そして、いつかこのかたにお会いすることがあるだろうと願っていました。そして、この写真は私が一生で写した写真の中で一番の出来ではないかと思いっていました。

撮影/末盛千枝子

あちこちの修道院や、その頃の皇后美智子さまにもお送りしました。するとすぐにお電話があり、「もう被災地に入ったのね」と少しうらやましそうでいらっしゃいました。どんなに心配しておられるだろうかと思ったことを覚えています。
そのお坊さまはやはり得度しておられるというお母上とお訪ね下さったのですが、それは、私が東京の時から存じ上げていた絵本の出版関係の方の息子さんをつうじて、私の家をお知りになったからのようでした。その方が玄関にお見えになったとき、何も仰らなくてもすぐにわかり、涙が溢れました。全てに時がある、という聖書の言葉を思いました。ちょっとでもおあがりください、と申し上げて、お茶も入れずに、いろんなお話をしました。質素な作務衣をお召しになったその方を前にして、私はまるでアシジの聖フランシスコにお会いしているような気がしました。そう申し上げると、「ブラザーサン・シスタームーン」という映画の話をされ、あれは本当にいい映画でしたね、と言われるのです。本当に奇跡のようなクリスマスの前の日でした。

私は自分の出版社を閉じて、岩手に引っ越してきたのですが、友人が「神様が自分と一緒に北の海で働いてくれ、と言われたのね」と言ってくれました。涙が溢れました。そして、もう会うこともないだろうと思っていた友人達とはそれまで以上に深く付き合うようになりました。そして、絵本を通して、新しい友達もたくさんできました。自分が若い時から絵本に興味を持って、仕事をしてきたのは、この時のためだったのかと思うこの頃です。
難病の上に、スポーツの怪我で下半身不随になった長男と暮らしながら、彼がいなければ、私の人生はこれほど豊かなものではなかっただろうと思います。大変ではありますが、不幸ではないのです。それよりも、本当にたくさんのことを知るようになりました。そして、東京にいる次男も、やはり全く別な困難を抱えていて、心配ではありますが、きっと何かいいことがあると思っています。
私が東京を離れる時にだしていただいた最初の本は『人生に大切なことはすべて絵本から教わった』というのです。今にしてみれば、本当に不思議なことです。でもあの時、すでに困難に対しての対処を知らずに身につけていたのかと思います。人生の不思議です。

『人生に大切なことはすべて絵本から教わった』(現代企画室刊)
『人生に大切なことはすべて絵本から教わった』(現代企画室刊)