今田 龍子(こんた りゅうこ) 

チーフス・エディトリアル・オフィス 代表 元『婦人画報』編集長

今田龍子(こんたりゅうこ)

プロフィール
1981年、青山学院大学卒業。同年、株式会社婦人画報社(現:ハースト婦人画報社)入社。
『婦人画報』編集部で、日本の伝統文化、旅、アート、ファッション、ライフスタイル、人物インタビューなど様々なジャンルにわたり取材、編集。
1999年~『婦人画報』副編集長、2004~2009年、『婦人画報』編集長を務める。
2005年、『婦人画報』創刊100周年には、全国で様々な記念イベントを開催。また、「美しい日本を撮ろうフォトコンテスト」「いしかわ伝統工芸フェア」「工芸都市高岡クラフトコンペティョン」「国際陶磁器フェスティバル・テーブルコーディネイトコンテスト」などで審査員を務める。
2009年より書籍開発課課長。『天皇陛下と皇后美智子さま 至高の愛の物語』『コドモノクニ名作選』シリーズ『チャーミングな日用品365日』他、書籍を編集。
2013年、企業出版部(現・Hearst made)に異動。企業のメンバー誌や広報誌を編集。
2020年、ハースト婦人画報社を退職し、チーフス・エディトリアル・オフィスを設立。雑誌の編集やカタログなどの制作、またライターとして紙媒体やWebで執筆活動を行う。


小さなときめき 

はじめまして。今田龍子と申します。 
出版社で雑誌や書籍の編集に携わり、いまは独立して小さな編集室をつくり編集の仕事を続けています。 
この度「女性100名山」の原稿のご依頼をいただきましたが、「名山」とはおこがましい限りで、「名山」ならぬ「迷山」の一席となりそうですが、おつきあいのほど、どうぞよろしくお願いいたします。 

何かを表現する人でありたい。 
自分の力で生きていきたい。 
好きなことを仕事にしたい。 
生涯続けられるものを見つけたい。 
それは、小さな頃から漠然と抱き続けてきた想いでした。いま立ち止まり、振り返ってみると、その想いに導かれて歩いてきたことに気づきます。 
編集者という職業があることを知ったのは、小学校の高学年の頃でした。1960年代、雑誌は毎月本屋さんが家に届けてくれました。母が愛読していたのは『暮しの手帖』と『婦人之友』で、大好きな親戚のお姉さんの愛読書は『婦人画報』でした。その3冊はいつも私のそばにあり、私も自然に読むようになり、毎月新刊が届くのが楽しみでした。雑誌のなかにある素敵な暮らし、輝くばかりの工芸品や宝石、美しい人、おしゃれな装い、見たこともない外国の風景とそこに生きる人々、映画や音楽やお芝居……。雑誌の中には夢の世界がありました。巻末には編集後記が載っていて、取材や編集時のさまざまなエピソードが綴られています。伝えたいという編集者の想いと、それを形にする苦労と喜びに想像をめぐらせ、編集の仕事っておもしろそう! と小学生の小さな心がときめきました。 

飛びついてはみたものの・・・・・・

それから数年が経ち、中学生の私は、部活の新体操に夢中でした。休みはお正月三ケ日だけ。土日も返上で練習し、「絶対に県大会に行こう!」と級友と励ましあい、3年生の夏、ついに、開部初となる県大会出場を果たし、6位に入賞して鼻高々でした。そしてやってきた高校受験。 
私は突然、「そうだ、音楽をやろう!」と思ったのです。郷里の山形には、県立高校では東北唯一の音楽専門科がある高校がありました。山形北高音楽科を受験しますと担任の先生に伝えると、先生はシブイ表情です。高校は普通科に進み、じっくり考えてから、大学に進むときに将来の道を考えてはどうかと言うのです。三者面談に呼ばれた父は「娘がやりたいと思うことをやらせたい」と私の背中を押してくれました。 
なぜ、突然、音楽なのか。それは、ただただ「私は何かを表現する人になりたい」と想う一心からでした。小さい頃からピアノを習っているというだけで突っ走った音楽という選択は、無謀というよりありませんでした。なぜ突然音楽に飛びついたのか……。その理由はしばらく私の記憶からすっぽり抜け落ちていましたが、後年、同窓会で集まったときに、担任の先生の思い出話で得心することになります。中学ではクラス対抗合唱コンクールというのがあり、『虹と雪のバラード』を歌うと、私はNHKの楽譜がもらえるという告知に飛びつき、楽譜を手に入れました。「虹の~地平を~歩み出~て~」とトワ・エ・モアが歌い、1972年、日本中で歌われていた札幌オリンピックのテーマソングです。文句ありげでシブシブという体の男子のお尻をたたき、練習を重ねて披露した合唱は、見事優勝! 私は、張り切ってピアノ伴奏を務めました。担任の先生がおっしゃるには、「あのとき、拍手喝采をあびて、すっかりその気になった」と。う~む、そう言われれば……。あのとき、サルはおだてられて木に登ってしまったようです。 

今田龍子(こんたりゅうこ)
音楽漬けだった高校時代。山形県立山形北高等学校音楽科定期演奏会。1973年。

そこから始まったいばらの道。ちょっとピアノが弾けるくらいで通用する道ではないことを思い知ることになります。演奏されたメロディーや和音を聴いて譜面に起こしたり、初めて見る楽譜を正確に歌う「ソルフェージュ」なるものがあることを知り、受験のために猛特訓。なんとか入学はできたものの、付け焼刃のレッスンではどうにもならず、私は落ちこぼれでした。友人もでき、高校生活はそれなりに楽しかったけれど、後悔と挫折感のなかで過ごした3年間。肝心の音楽は落ちこぼれでしたが、普通科目の成績は悪くなく、特に国語は得意で、感想文コンクールで表彰され、分厚い国語辞典をいただいたこともありました。同級生には「リューコちゃんは何か文章を書く仕事に進んだら?」と言われる始末。音楽科の生徒としては、トホホ……な言われようです。 

才能もなく、さしたる努力もせず、流れのままに同級生たちと同じように音大を受験。当然、希望する大学には落ち、両親に頼み込んで浪人生活を送ることになりました。ほどほどに勉強し、ほどほどにピアノや声楽、ソルフェージュのレッスンを受ける砂をかむような毎日。心は乾き、ワクワクすることも、ドキドキすることもありません。 

自分から言い出した意地もあって、音楽にしがみついてみたけれど、さすがにこのまま続けても、音楽で表現する人にはなれないと悟り、違う道を探そうと方向転換を決意しました。先が見えない重い空気のなか、またまた両親に頭を下げて、音楽から離れることにしたのです。 

気持ちも新たに大学は文学部に進み、平穏無事に学生生活を過ごし、あっという間に就職活動が始まりました。とにかく自立して生きていきたいと、ジャンルを問わずさまざまな会社にアプローチしました。内定をもらった会社もありましたが、どうにも心が晴れません。本当にこれでいいのか?と自問自答をくり返すなかで、心の奥底に眠っていた、子どもの頃に夢みたキラキラした想いが蘇りました。「編集」という仕事です。

私の居場所

WebもSNSもない時代、雑誌は、時代の空気や流行をキャッチする情報源であり、おしゃれなライフスタイルやファッションのバイブルでした。いまでこそ、編集者になりたいなどという若者に出会うことは減ってしまいましたが、当時、編集者は人気の職業で、出版社に就職するのは狭き門でした。無理だと諦めて、あとで後悔する前に、やるだけやってみようと決意。真っ先に調べたのは婦人画報社の採用です。そうです、子どもの頃に胸をときめかせたあの『婦人画報』の出版社です。大学の窓口に問い合わせましたが、その年、婦人画報社の採用はないとのことでした。ならば、と、私は婦人画報社の人事担当者宛に手紙を書きました。小学生の頃から『婦人画報』が大好きで愛読していること、『婦人画報』の素晴らしいところ、私が編集者ならこんなページをつくってみたいということなどを長々と書き連ねて送りました。しばらくして、婦人画報社から連絡がありました。あなたが在学する大学に募集はかけていないが、採用試験があるので、受けてみますか? と思いもかけない連絡でした。一も二もなく、「行きます!」と電話口で頭をさげ、いざ試験会場に向かってみれば、対象大学を絞った募集とは思えない人数が集まっているではありませんか。なんと数百名のなかから採用されるのは数名とのこと。これは無理だ、さっさと帰ろう……と弱気になる気持ちを抑えて、まずは筆記試験です。その後、役員面接まで、3回ほどの面接試験を経て、なんと、採用されるという奇跡が起きたのです。役員面接では、何としても『婦人画報』の編集をやりたいのだと熱弁をふるいました。よく覚えていませんが、「はい、分かりました、分かりました」とにこにこして頷いてくれたのは、社長だったような気がします。同期は8人。婦人画報社では、女性ファッション誌、メンズファッション誌、ビューティ専門誌、きもの専門誌など多ジャンルの雑誌や書籍を出版していて、いくつかの編集部に分かれていました。私は婦人画報編集部へ配属が決まり、希望通りにとんとん拍子にことが運ぶさまは、なにやら狐につままれたようで、空恐ろしくさえありました。 

「君か、あの手紙の主は」という男性の声がして、私はそのS先輩と、隣で笑顔をつくるT先輩の2人がいる「特集班」の一員になりました。どうやら私が書いた手紙は編集部で回し読みされたようで、13名ほどいる先輩たちの、面白がるような、温かく見守るような視線が入り混じるなんとも言えない雰囲気のなかで、私は自分の厚かましい手紙の内容を思い出しカァーッと顔が熱くなりました。しかし、私は、そこが居心地のよい自分の居場所であることを一瞬にして感じ取ったことを覚えています。編集という仕事に携わる人たちは、自由で明るい空気をまとい、みんな同じような匂いがしました。高校、大学と、どこか居心地の悪さを感じて過ごした10代後半から20代始めの鬱々とした日々をやり過ごし、私は長いトンネルを抜けて、陽のあたる大地に立ったような心地よさを感じていました。

促成栽培

「コンタ、塩田丸男先生のコメントをもらってこい」とT先輩に言われたのは、入社1カ月を過ぎた頃でした。入社ほやほやの新人を一人で取材に行かせるなど無謀極まりないことですが、私は「1年で促成栽培するからそのつもりで」と、S先輩とT先輩に言われていました。なぜ1年かというと、毎年人事異動があるからです。この3人がチームであることが約束されているのは1年だけ。だから1年で教えられるだけのことを教えるというのです。 

私は数年ぶりに婦人画報編集部に配属された新人だったそうで、先輩たちは雑用を言いつける新人がようやく来たと待ち構えていたようです。印刷所やデザイナー、筆者、カメラマン、イラストレーターなどに原稿や資料を届けたり、上がりを受け取りに行くお使いをひととおり覚えた頃に、特集班の2人の先輩は「これからはコンタにお使いを頼まないでくれ」と、編集部全員に申し出ました。「どうかそんなことは言わないでほしい……!」と、私は心のなかで叫びました。お使いをするのは新人の役目だし、特別扱いをされたら、ほかの先輩たちがどう思うか、ナマイキだと風当たりが強くなるに違いない・・・と、私はうつむくしかありませんでした。 

後で知ったことですが、明治38年に創刊した日本で最古の女性誌の一つという歴史に甘んじることなく、編集内容を刷新して『婦人画報』に時代の息吹を与えたいと考えたのは、私が入社する少し前に編集長の任に就いたU氏でした。歳時記的な記事や日本伝統の茶の湯、いけばな、キモノ、料理、有名作家の書き下ろし小説などが中心だった『婦人画報』にあり、時代の中で注目される出来事や人物、トレンドなどを、ジャンルの垣根を越えていきいきと伝える新しい誌面をつくる、それが新設された「特集班」のミッションでした。新人を一人つけるという条件で、S氏とT氏は『婦人画報』に新しい風を送るという役割を請け負ったのでした。その新人というのが私だったわけですが、後日「促成栽培」の意味を知り、足手まといになってはいけない、早く仕事を覚えよう、とただただ走り回る日々でした。

今田龍子(こんたりゅうこ)
海外の高級ブランド人気が高まるなか、一流のモノづくりのスピリットを伝えるべく、現地の本店やアトリエを取材。1989年、ドイツにて。 

編集部は昼も夜もない忙しさでした。それには酒の席も織り込み済みで、今日は早く終わったと言っては飲みに行き、深夜まで根を詰めたから一杯やって帰ろうと言っては飲みに行き、毎日居酒屋やバーに通っては、深夜にタクシーで帰るのです。でもそれがイヤかと言うとそうではなく、次は〇〇〇の特集をやろう、それより〇〇〇のほうが面白いだろうなどという企画の話から、話題となっている本の論評、映画論、人物評、志ん朝や枝雀の名人芸に唸り、早坂 暁の『夢千代日記』はうまいね~、はては社会現象と化した山口百恵論などなど、縦横無尽に展開する先輩2人の話に、私は毎夜耳をそばだてました。熱く語られる映画『泥の河』(小栗康平監督)は、次の日曜日が来るのも待ち遠しく岩波ホールに飛んでいき、続けて2回も観てしまいました。ああ、話に出ていたのはこのシーンか、なるほど、そういう視点があるのかなどと、先輩たちの話のやり取りが興味深い解説となり、映画をいっそう面白くしてくれます。先輩の影響で寄席に落語を聴きに行ったり、カメラマンの車に同乗して地方取材に出かけるときには枝雀の落語を聞きながら移動するのが慣らいとなり、みんな枝雀のモノマネができるようになったり。気の合うカメラマンやデザイナーも巻き込んで、テニスがブームになることもあれば、野沢にスキーに行くのが冬の恒例となったり、花見の句会を開いたり……。句会と言えば、俳句への興味が高じて、後に「連歌で遊ぼう」という企画を誌面化したこともありました。ゲストに、塩田丸男さん、小林亜星さん、下重暁子さんらを迎えて、熱海の旅館に一泊しての連歌の会。連歌は趣味人が親しむ古典の世界ですが、それをかみ砕いて、大人のエンターテインメントにしようという試みです。さすがに機転とウィットに富むみなさんとあって、丁々発止のライブ感がある楽しいページに仕上がりました。ことほどさように、夜な夜な開かれる酒の席は、編集会議さながらで、時には議論が白熱してケンカになることも。行きつけのレトロなバーでは、マスターに「もう、帰ってくれ!」と怒られることもしばしばでした。

今田龍子(こんたりゅうこ)
翌年7月号の「祇園祭」大特集に備え、猛暑の京都で「祇園祭」を取材。交通規制で車移動ができないなか、取材スタッフ全員で手分けして重い機材を持ち、鉾町を回る。1989年7月。

((2)に続きます)