木全 ミツ(きまた みつ)

NPO法人JKSK 元会長

木全 ミツ
  • 福岡県久留米市生、東京大学医学部(公衆衛生)卒
  • 労働省海外協力課長、労働大臣官房審議官、
  • 国連日本政府代表部公使(New York:外務省出向)
  • (株)イオンフォレスト(The Body Shop, Japan) 代表取締役社長(創業社長)
  • 他NPO 法人、財団法人・社団法人等の団体役員を
  • 多数務めている。

職業意識の芽生え:

九州福岡出身の軍医大佐の父と福岡高等女学校時代に振袖にラブレターを投げ込まれ、大恋愛の末に「将来は日本の陸軍大将の妻になるんだ」という思いで結婚した母のもとに、男6人女3人の兄弟姉妹の次女として私は生まれた。家庭の中では、姉、兄、妹、弟たちに囲まれ、目立たない、誰からも期待されない、どうでもいい子として、専ら家事手伝いを求められ、それを嬉々として受け入れながら育った。
終戦の数日前に父と別れ、満州新京(現中国長春)から、帰国する途中の北朝鮮平壌(現ピョンヤン)で終戦を迎え、日本人に対する暴動がおこる直前に貨物列車に乗り込み危機一髪で朝鮮半島を通過し、満州からの引き上げ船第1号として、日本に帰ってきた。
日本中は焼け野原、浮浪児が巷にあふれる、だれもが貧乏な生活を強いられた状況だった。生活保護を受けながら、配給のカボチャの一切れがお皿の上に載った夕食。「動くとお腹がすくから静かにしているのですよ」としか、なすすべのない母の姿をみた。自分の力とは関係のない力で自分の人生の目標の梯子を外された哀れな母の姿に、「いやだいやだ、あんな哀れな女にはなりたくない。どんな時代、どんな環境下に置かれても、自分の脚で立ち、生きていける女(人間)になりたい!」、これが9歳の時の職業意識、人生の覚悟であった。

人生の指針

5年後、戦犯として、シベリアに抑留されて音信不通だった父が、幸いにも最後の引揚げ船で帰国。中学2年の時であった。「日本に将来があるとすればテクノロジーだ。学問を続けるのであればサイエンスを選べ、これからの日本には、男も女もない。能力があればどこまでも進め。」 軍国主義者だった父が、5年間のソ連の教育により社会主義者となって帰国した際の言葉であった。
「何と素敵な言葉だろう!これからの日本には男も女もない・・・」私は、その父の言葉に奮い立った。父は続けた。「私は医者だ、再起可能だ。しかし一つだけ、お父さんに協力をしてほしい。子どもがこんなに多いので、皆、国立に行ってほしい。」と。「お兄ちゃん、国立ってなーに?」「馬鹿だな、東大だよ」私は、父と相談し東大の医学部で公衆衛生を専攻することにした。

就職先の決定

「あなたが自分で決めたことではないか」このことが、人生のすべての側面で私の背中を押し続け、微動だにすることなく,軸がぶれることなく前に進む原動力となっていった。
上下水道も完備していない日本の公衆衛生のレベルを高めねばならない、公衆衛生を専攻した卒業生が社会の各分野に所属し、打てば響く連携を取り合いながら取り組んでいくためには、学問を追求する大学、研究を探求する研究機関、働く人々の健康管理に携わる企業、或いは、隠然とした力をもつ官僚かと議論をする中で、誰かが官僚に…ということになり「貴女が」と皆からおされた。
安保反対という学生運動に埋没していた私は、「官僚は本当に社会のためになっているのだろうか、むしろ、世の中の癌だ」と学生間でたたかれていた官僚。友人達に押される中で1人、悶々と考えていった。「あなたは、隠然とした力のある官僚という存在を避けて人生を歩むのか、何故、1人の力など何もできないかもしれない、でも、中に入って改革をしようと思わないのか」と1人自問自答した結果、官僚の道を選ぶことにした。昔の内務省の影響をもろに受けている厚生省、文部省はとても私の体液が許さない。幸い、戦後、働く労働者の権利、女性の権利、子どもの権利を守れずして民主主義国家はあり得ないと設立された労働省の存在を知り、決心がついた。
シベリアでソ連の教育を受け、軍国主義者から社会主義者になって帰国した父からは、「岸信介(当時の首相)の手先になるような娘は、おれの子どもとは認めない、親子の縁を切ってからいけ」と猛反対され、他方、東大医学部のソヴィエット医学研究会で活動を共にしていた恋人からも猛反対され、最後は労働省をとるか、僕をとるかと迫られることになった。
これからの人生、どんな苦難に直面しても、「あなたが自分で決めたことではないか」というその1点を堅持出来たら、生きていくことができるだろうと思っていた私は、「父」と「恋人」という大きな山の谷間に立って「よーし、自分1人で生きてみせるぞ」と決意を固め、長文の決意文を認め、夫々に、別れの決意を伝えた。
「そこまでは、おれは言ってはいない・・・」と父。彼の両親、特に母親の強力な説得工作を受けて、最終的には「ごめん」と彼。私は、何も失うことなく、労働官僚として就職し、結婚し、妊娠・出産を体験しながらまっしぐらに仕事を全うしていくことになる。

世界の中でも男社会の傾向が強い日本の男社会

その中で、自分の力を存分に発揮し、社会に貢献していくためには・・・人生の戦いが始まる。しかし、それは、戦うのではなく、演じながら、人生というゲームを楽しみながら・・・。
男社会とは、女が相容れることができない社会である。しかし、その中でこれから生きていかねばならない。私には、この社会以外の選択肢はない。まず、その社会を認めるのではなく、知ろう、「この社会は間違っている」と指摘、批判、意見するのではなく、まず、現存社会の一員として演じてみよう。

1)お茶くみ問題

「お茶くみは、女の仕事」は、全く理に適っていない。「仕事が出来ない男に何ゆえに仕事ができる女の私がサービスをしなければならないのか」などと叫びたくなる気持ちを抑えて、従来の社会通念に従い、女だけに求められるお茶くみ当番を実行してみることにする(具体的には、1時間早く出勤し、オフィスの清掃をし、1人1人の茶碗を覚え、彼等が出勤してきたら、にこやかに「おはようございます」といれたてのお茶をサービスをする。朝の9時、10時、お昼の12時、15時、更に、課長室に客が現れると、仕事を中止してサービスをする。皆が帰宅した後、茶碗を集めて洗浄する)。キャリアでない殆んどの人は、17時に退庁するが、上級職として採用された私は、毎日、他の先輩官僚と共に深夜まで働き帰宅。絶対に、おかしいと思いつつも、笑顔で全うしていった。そして、1年が過ぎた。
さて、1年の体験は、提案、発言の資格に値するか・・・いや・・と2年目も黙々と体験を進めていった。「女だから当然だ」「いや、上級職で深夜まで仕事をしているので、免除すべきだ」などと発言が出来る勇気ある同僚、先輩、上司は1人もいない。しかし、明らかに職場の雰囲気に大きな違いが起こっていた。どんなに忙しい仕事を持っている時でも、にこやかに時間が来るとお茶のサービスをする姿を直視することが出来ず、木全が担当するお茶サービスの時間帯になると席をはずしてトイレにいく人たちが出てくるとか・・・・。
そして、2年の体験を終え、3年目の第1日目にみなさんに集まっていただき「お茶くみ当番のことですが・・・私は、男も女も平等にお茶当番を…などと申し上げるつもりはありません。だって、男性がひげもじゃの腕で課長室のお客様にお茶をサービスしても美味しいお茶もまずくなるのではないでしょうか。しかし、一つご提案です。17時に帰宅する時に、自分の茶碗をデスクに置きっぱなしで帰宅するのではなく、出口のバケツに入れて帰っていただけないか」と。「当然だ、当然だ」と反対をするものは1人もいないばかりか、その後、皆がこの問題を考えるようになり、改革は進められていった。

2)出産問題

「だから女の採用には反対だ、結婚し、妊娠しまわりに迷惑をかけるから」(産前産後6週間の休暇(但し、産前は義務ではない)という制度しかなくまた、休暇中の人員の補充はなしという時代)の男性の意識である。
元気のいい女性先輩官僚たちは、「何を言うか。子どもを産めないあなた達男達の代わりに産んで上げているのではないか」と。しかし、そんな議論をしても、何も成果は生まれない。職場環境も決して楽しくはならない。どうしたものか?
まず、産前は、出来るだけ出勤しよう。更に、私の子どもが生まれてくることを皆で喜んでもらう工夫はないものか・・・・。そこで、「私の子どもの出産予定日は12月1日。みなさん、出産日の当てっこクイズをいたしません?最も近かった方には、豪華賞品を!」と呼びかけた。課員全員が参加。私の子どもは、皆に待たれる存在になって行った。
妊娠は病気ではない、従って、産前の休暇は不必要・・・と毎晩深夜まで仕事に励んでいたが、出産予定日の10日前に、ついに、妊娠中毒症(血圧の上昇、蛋白尿、浮腫)に耐えられず、休暇をとることにした。しかし、その日の夜、息子は産声を上げた。前日まで仕事をしたことになる。東京大学医学部の医師であった夫は、息子の誕生の喜びを隠し切れなかったのか,また、私の同僚たちへの感謝の気持ちを表現せずにはいられなかったのか、私には何も言わず、大きなバースディケーキを購入し、自ら職場に届けてくれていた。何というセンスのいい行為かと、微笑みと感謝の気持ちでいっぱいであった。

3)出産後の仕事・義母を味方に

産後6週間の休暇中の仕事は、当時の私の仕事(アジア40、アフリカ50、中南米33の開発途上国に対する人材育成分野での海外技術協力業務)に常日頃から関心を持って下さっていた1年先輩(男性)の方にお願いし、喜んで引き受けてもらった。
しかし、毎日、対開発途上国の人々を対象にした業務にはいろんな課題が発生するので、お昼の時間1時間半は、必ず、電話で打合せをすることにした。従って、オフィスには、木全は出勤していなかったが、木全は存在していたのである。と同時に、毎日1時間半の打合せの姿を目のあたりにした義母も「皆様にご迷惑をおかけしているのね、1日も早く出勤しなければ・・・」と仕事への理解を一層深めていったという副産物まで手にいれることになった。

4)女性初の40日間東アフリカ出張

外務省から、アフリカに対する人材育成分野における海外技術協力業務の開始に当たり、労働省の木全係長のアフリカ出張の要請が労働省になされた。「女が公費で海外出張するとは、男も、上司たちも経験していない中で・・・・」労働省では、議論沸騰、そして、労働省の幹部会での最終結論は、「前例としない」という但し書き付きで、初めての40日間海外出張~東アフリカ(ケニア、ウガンダ)へ(1967年)。この40日間の体験を語るには、10数ページを要するので、この場では割愛いたしましょう。(つづく)