上山 良子(うえやま りょうこ)

ランドスケープ・アーキテクト/長岡造形大学名誉教授・前学長

上山 良子
  • 東京生まれ。
  • ’62上智大学英語学科卒。
  • ’78カリフォルニア大学大学院環境デザイン学部ランドスケープアーキテクチャー学科修了(MLA)。CHNMB(旧ローレンス・ハルプリン事務所)にてデザイナーとして経験を積み帰国。
  • ’82 上山良子ランドスケープデザイン事務所設立。
  • ’96「長岡平和の森公園」AACA賞(日本建築美術工芸協会賞)
  • ’02「芝さつまの道」グッドデザイン賞
  • ’04 「長崎水辺の森公園」グッドデザイン金賞(環長崎港アーバンデザイン会議)
  • ’06「きたまちしましま公園」グッドデザイン賞,AACA賞入賞
  • ’06「長崎水辺の森公園」土木学会デザイン賞優秀賞(環長崎港アーバンデザイン会議)他
  • 著書:LANDSCAPE DESIGN;大地の声に耳を傾ける 美術出版社 ’07

ある日、一本の電話がフィンランドの都市計画局から大学にかかって来たのです。ヘルシンキ駅の裏にあるツーロンラッティ湖の公園の国際コンペに招待作家として応募してもらえないかという話でした。若いころ行き来していた北欧。アメリカから一社、ヨーロッパから一社、そして日本からは我が事務所が招待されてのコンペという。これは33%の確率で取れると思い、受けることに。蓋を開けてみると、何とヨーロッパ人は誰でも応募可能ということ。招待されたからには究極の答えを提案すべきと思い、挑戦する。現場を観ることなしにはデザインはしないことを原則としています。これは私の主義ですので可能な限り何処へでも行きます。そして厳冬の北国へ飛んだのでした。こういう厳しくて暗く長い冬があるからこそ、北欧の短い春から夏の白夜の季節には野外の生活を大切にするのです。この二元性をデザインのコンセプトにし、湖の水の浄化を大きなテーマとして庭園の百科事典を空間として展開していきました。「宇宙との関係性を感じる庭園」ということが次第に私の中で確立していきました。彦坂裕氏を中心として当時事務所にいた所員7人が3ヶ月かけてしまい、事務所はもう火の車でした。またまた絶対にこのコンペは取れると思い込んでいたのです。

実施に繋がる最優秀賞はフィンランドの事務所が受賞し、私共はパーチェス賞と言う特別賞を受賞しました。頂いた賞金の100万円で、関わった皆で船を借りて東京湾での打ち上げパーティをして全て消えましたが、その思い出は忘れられないものです。根っからの江戸っ子です。
しかし、それからしばらく事務所は経済的に大変でした。コンペは常に代償も大きいけれど、得ることが大きく、デザインの次元を上げていく機会となり、皆の成長に寄与します。たとえば、授賞式にヘルシンキに行った時に「ヘルシンキの小学校の環境教育」の教科書を都市計画局から頂き、そのレベルの高さに感心し、それだけでも行った価値がありました。帰国後に文部省の方々や大学の先生方にもご紹介しつづけたのでした。日本の環境教育のレベルを上げることが、先ず第一にすべきことと確信しています。

「土地の記憶」をデザインに活かした「芝さつまの道」のプロジェクトはランドスケープ・アーキテクトが音頭をとって、2.4haのアーバンデザインを夫々の専門家とのコラボでデザインさせていただけた画期的なプロジェクトでした。三井不動産の若き担当者の英断に感謝しています。ホテル・オフィス棟、銀行棟、住宅棟の各建築事務所、色彩の専門家、照明の専門家そしてデベロッパーである三井不動産の企画、販売、のグループ全員をまとめていくファシリテーターとしての役目を担い、ガイドラインをまとめていきました。しかし、そういう立場をランドスケープに与えるという考え方はこの時代には無かったのでした。しかも女性に。
40人近い大景観会議を発足させた最初の日の関係の方々の不服な顔はいまも忘れられません。ワークショップの技法を生かし、各専門家の声を聞く耳をもつことに専念しました。回を重ねるごとにこの土地の資源そのものである「土地の記憶」をデザインのコンセプトとすることでコンセンサスをとることができたのです。それはこの敷地の持つ「土地の力」そのものでした。ここは幕末に江戸城を無血開城へと導いた勝海舟と西郷隆盛会談の行われた薩摩上屋敷跡地で、戊辰戦争で焼け野原となったまま忘れられていた土地であったのです。しかし、そのことをデザインのコンセプトにすることには上層部への説得は大変だったようです。

「そんな職業があるのか?」と長崎県金子原二郎知事の私への問い。長崎-オランダ、日蘭交流400周年記念、地域情報会議主催の「景観」シンポジュームでのことでした。田村明、伊藤滋、と錚々たる街づくりの大御所のメンバーに加え、長崎県知事、平戸市長とご一緒。これはしっかり自分で事前調査をしておかなくてはと、長崎から平戸へ続く長崎街道を一週間前に個人的に調査して望んだのでした。景観美から程遠い沿道の景色や平戸のまちの状況をみていましたので、率直に現状に即した意見を申し上げることが出来たことで、知事のこの質問に繋がったのでした。ランドスケープ・アーキテクトとはどういう職業だ?それが市井の現状でした。

一度現場を見てアイディアを出してもらおうということになったことはこれも運命としか言いようがありません。最初のスケッチが気に入られ、伊藤滋を委員長として、長崎港周辺のアーバンデザインの検討を行う専門家の組織を立ちあげ、知事の直轄とした組織づくりは賢明でした。土木の篠原修、照明の石井幹子、建築は地元の林一馬、そしてランドスケープを私が受け持つことになりました。しかし金子知事は現場が始まるまでは私に対しては疑心暗鬼でおられたことは明白でした。私は命がけでこの大仕事にかけたのも確かです。「死んでもいい」という極限までこの「大地を穿つ」ことに全身全霊で臨んだことも事実です。結果としてグッドデザイン賞の金賞を受賞出来たことは知事と県民の皆さまへの感謝のしるしとなり、ホッとした次第です。

昔から鶴の港と呼ばれていた長崎港に開かれた6.5ha の敷地に立ったとき、この土地の持つ「可能性」は計り知れないことを感じ、「土地の声」に耳傾けて立ち尽くしていました。与えられた時間は少なく、私はまずこの素晴らしい歴史、すなわち「土地の記憶」をデザインの軸にすえよう。そして「ここしか無い場」として世界へ発信する場創りが希求されていることを確信したのでした。何処からも見られるこの場所を「大地のアート」として表現。大地の何処に立っても宇宙を感じることの出来る場創り。そう、ランドスケープとは「天と地を結ぶ仕事」と次第に思えて来たのです。「コスモ・フィリア:宇宙・愛」こそが、究極の場創りのコンセプトと思っています。宇宙との関係性が見えてきた時、場創りはより次元の高いものになると確信できるようになってきていました。

女流科学者M/ベニウス女史の「バイオミミクリー:生命に学ぶ」には、その後のデザイン人生に大きく影響を受けました。「自然を師とする」考え方こそこれからのモノづくり、場創りの基本となるべき考え方です。子どもたちが水を通して自然を学ぶ場である「水の劇場」は、こどもたちの人気のスポットとなっているようです。

その土地の持っている可能性を引き出していくというランドスケープの仕事の流儀は「土地の声に耳傾ける」こと。土地の持つ資源を評価して、相応しいコンセプトのもとに人々がその場に立って「人生を考える」ことの出来るようなしつらえが希求されると私は思っています。その空間が宇宙を感じることを自然に促すような場づくりを常に考えているのです。それはあのL.ハルプリンのワークショップで目から鱗の経験を私がしたように、訪れた人々に何かを感じてほしいという願いが込められています。この公園で遊んだ子どもたちが何かを学んで育っていってくれることをこっそり楽しみにしている訳です。土地の記憶を形づくった「座のオブジェ」、座る彫刻は子どもたちの想像力を育むプレイスカルプチャーなのです。同時にそれらは大人たちの癒しやストレッチのための道具ともなります。様々な思いが隠蔽されていながら、空間そのものはシンプルである。それが「Timeless:時代を超えた」場となっていくと確信しています。
(つづく)