上條 茉莉子(かみじょう まりこ)
NPO法人コペルNPO代表理事、NPO法人JKSK 監事
NPO法人情報セキュリティフォーラム理事
公益財団法人俱進会評議員
社)かながわ若ものサポートステーション理事長
社会福祉法人たすけあいゆい評議員
- 1962年 東京大学理学部数学科卒、米国ノースイースタン大学数学科大学院修士課程卒
- 1962~1993年 日本IBMにてSE(システムズエンジニア),SE管理者として勤務。
- 1994~2002年 有)ライフ・デザイン・コンサルタンツ 代表取締役
- 2002~2005年:コペルネット株式会社 代表取締役
- 2008~2014年 かながわ女性会議代表、NPO法人化後理事長
- そのほか
- 女性技術者フォーラム設立委員&代表理事歴任
- 神奈川県男女共同参画審議会会長、 神奈川県総合計画審議会副会長等歴任
- 産能短大講師、東京大学工学部講師(社会・経済構造の変化と基盤整備のあり方)歴任
- NHK関東甲信越番組審議委員会委員&委員長 歴任
- 神奈川県ボランタリー活動推進基金審査会 審査委員&会長代行歴任
- 新聞・雑誌に寄稿多数 また 自ら情報誌(LDIC NEWS)を発行も
- 著作:公人社 NPO 解体新書 編・著、 機械学会:人間と機械の共生 共著
コペルNPO 設立と経緯
2000年末、「われわれの神奈川を考える会」を解散し、2001年2月にオフィスを本郷三丁目に移しました。
世界の状況を見れば、米国では1980年代に経済不況が起きて、女性も数多くリストラされましたが、生きてゆくために、彼女たちは小さな小さな事業を立ちあげ、クレディットカードで、5千ドル、1万ドルと少額を借りて起業した人が多かったのです。80年代末からの10年間の女性の躍進は眼を見張るものがあって、起業数、雇用者数は、男性起業の4倍、5倍という数字をたたき出し、どこから見ても、女性が経済界の大きな部分を担っていることが証明されたのです。
日本はアメリカの10年後ろをたどっているようなところがあるので、‘90年代の経済不況時に女性の起業ブームになるかと期待したのですが、そうはならなかった。「夫の扶養家族」という逃げ道が、大きかったのですね。
しかし21世紀に突入し、90年代にリストラでやむなく家庭に入った女性たちも、子育てがそろそろ終わり、また再就職や起業したいに違いない、そういう時期に来ていました。
ビジネス界に復帰するには、今度こそしっかり、ビジネストレーニングを通じて実力をつけ、きっちり高処遇も勝ち取らねば・・・と考えたのです。真の男女平等は、数%のリーダーだけでなくその他大勢の女性たちが平等を勝ち取ってこそ果たせるものなのですから。
そこで有限会社LDICを、NPO法人コペルNPOと 株式会社コペルネットのデュアルな組織にすることにしました。女性の自立を支援する事業は非営利で、そこで育てた女性たちが一歩踏み出す最初の仕事は、きちんと市場価格で扱われるようにしたい、そう考えたからです。
川崎市の男女共同参画センターで、女性の起業講座を受け持つことになりました。また女性にとってIT スキルを身に着けることは 何の仕事をする上にも役立つと考え、ビジネスのよくあるシーンに対処できるようなWORD/EXCEL/POWERPOINT/HP制作コースを開発し、横浜や県内の自治体で展開しました。
コペルのオフィスは、本部のほか、向かいのビルに1フロアを借り、インキュベーター:起業実験工房として、サーバーを3台と周辺機器、まだ高価(1か月7.7万円)だったインターネットが使えるようにし、フロア半分を教室兼工房に、半分を起業家のためのブースを4つ備えたオフィスとしました。
小規模なオフィス内LANを構築できるくらいのスキル、またはLinuxベースのソフト開発ができるスキルを身につけられれば、きっと社会の需要にこたえることができる!というのが基本的な考えです。それを効果的に実現するには、様々な機材をそろえた実験工房は、自由に「実習」できることから、眼に見えて実力がつくことを、IBMでの経験で知っていました。もちろん指導者が必要なので、優秀な大学院生を必要に応じてお願いし、理系女性を管理者としてスタートをしました。
世はパソコン講習が花盛りでした。しかし一段上のスキルが「売れるスキル」だろうというのが、私の考えでした。こういうスキルを身につければ、就職するにも、起業するにも有利であろうと。
女性起業家見本市
川崎市はじめ、いくつかの自治体の女性センターで、起業家育成講座を開いて受講生がかなりの数になり、中に少しずつ実際に起業し、ビジネスを展開する人も出てきた2004年、ある公益財団法人から、「女性起業家の見本市」をやらないか?と声をかけられました。
改造中のビルの2、3階を提供するから、「見本市」をプロデュースしてほしい、という依頼でした。
やっと私の考えていた世の中に近づいてきた!と私は飛び上がりました。しかし準備期間は4か月しかありませんでした。どう考えても無理!と友人たちは心配して、断ったら?と全員が口をそろえました。でも何とか成功させてみせる!と、決心は変わりませんでした。
すぐさま、見本市の構想を練りました。見本市会期は2週間、商品を出品できる小さなブースを2,3階合わせて30ほど作り、カフェコーナーで商談スペース、情報のみで参加する起業家の情報コーナーを別途設ける。ブース出展者は公募で募集期間は2週間、参加費無料、としました。運営は起業家育成講座の受講生たちに声をかけて、参加者を募りました。
建築家、フラワーデザイナー、WEB デザイナー、マーケティング経験者が運営に参加してくれ、見本市会場設営と機材は、別途財団法人の方で手配してもらえました。出展者には広報、チラシなども主催側で手配という好条件で、「出展者公募」という新聞記事を書いてもらいました。
出展者の公募はすぐに、定員が埋まり、締め切り後になんとか出したいといってくる人も、いました。ブースは無理でも、机1つ、椅子1つを展示場にして、出店を認めました。
小さな隅っこの1隅を私の起業相談にあてましたが、占いをやりたい人に時間差で半分譲って、占いコーナーにもしました。結果、一番売れっ子だったのは、その占い師だったというおまけつきです。椅子1つにカバーをかけて、自前の化粧品を展示した女性は、10万人以上の肌相談の会員をかかえる化粧品会社の社長で、今も立派にビジネスを展開しています。
すべての仕事を後回しにし、4ヶ月をこの見本市の開催につぎ込んだ日々でしたが、女性たちがそのスキルを持ち寄って力を合わせれば、立派にビジネスでもイベントでも何でもやっていけるという自信をそれぞれに得たこと、これが最大の収穫だと思っています。
ここから、「実際に手を下してやってみる」機会の重要性が見えてきます。これまで女性には、そういった機会はほとんど与えられていなかったというのが実情でしょう。だから実力を身に着けた女性が育っていない、だから女性にハイ・ポジションを!と言われても、女性自身もしり込みするし、周囲も認められない・・・というのが、大方の企業だったのでしょう。
実力を磨く場が与えられないなら、自分たちで作ればいい!というのが私の考えでした。
八ヶ岳国際音楽祭
日本の優れたオペラ作曲家の三木稔氏の後援会は「結の会」といいます。私は、そのメンバーとして、IBM時代から、オペラやコンサートに出かけるなどしていました。国内のみならず、米国セントルイスで三木氏の「源氏物語」オペラの初演上演に駆けつけたり、三木氏の次のリサイタル会場の下見をかねてイタリアのヴェネツィア&トスカナ地方に出かけたり、忙しい中でも、自分の精神を開放できる豊かな時間を時折自分に与えてきていました。
世界ではとても高名な三木氏が、日本でなぜ高く評価されないのか?も、疑問に思っていたことでした。
そんな折、2006年の3月ころでしょうか、三木氏が「八ヶ岳で国際音楽祭をやりたい。出来ればお盆過ぎの金曜日から日曜日の3日間で」と言い出したのです。「来年の夏でしょう?」というと、「いや僕はがんで先がないから、今年やりたい!」、「じゃぁ、誰がプロデュースするのですか?」、「決まってない、君やってくれる?」「ええっ!」と言うことになってしまいました。
「とにかく、北杜市の市長に会って支援を頼んでみるから、ここで賛同を得られたら実施したい。スイスから愛弟子の中国琵琶奏者 楊静(Young Jing)が所属しているアンサンブルを助成金付きで、呼べるから。」というのです。
このプロジェクトも4か月の期間しかありません。またもや、友人たちは「絶対無理!」と猛反対しました。「でも誰が孤立無援の三木氏を支えるのか? とも角やれるところまでやってみよう」、と覚悟を決めました。
また単にコンサートをやります、だけでは誰もついてこない、地域振興をかねたイベントになるよう、地域の人と一緒に盛り上げるようにしたい。山梨県の特産品を東京や世界からくる人達に紹介するフリンジ・イベントを同時開催して、遠方からくる人を楽しませる!というコンセプトにし、提案書に纏めました。
さて、私は山梨県には全く縁がない、人脈もない・・・そこで、当時委員を務めていたNHKの関東甲信越番組審議会の委員である甲府の老舗ワイナリ「サドヤ」の社長である今井氏に、提案書を見せ、協力を依頼しました。親戚の大学教授が、観光ビジネス振興のシステム提案を山梨県に行っていたのを思い出し、観光課に紹介してもらうことにしました。
4月の第1週に県観光課長にアポがとれて単身で出かけ、いかにこのコンサートが世界でも稀有な有意義なものであるか、熱弁をふるいました。
じっと聞いていた課長は、林野旻さんという元県職で知事・副知事に近い地方名士の方を紹介してくれました。彼もまた協力者を何人も紹介してくれました。
林野さんに連れられて何か所も回った中でも、元副知事のご自宅に伺って説明をしていたら、じっと聞いてくださって、「これは大変なプロジェクトになるから、北杜市長の直下にプロジェクトチームを作って集中して動かなければ、無理だろう」とおっしゃって、その場で北杜市長秘書課に電話してくれました。そこで、プロジェクト チームを結成してくれることになったのです。そこまで聞いて、私は「これできっと成功する。成功させてみせる!」と確信を持つに至ったのです。
清里の萌木の里のフィールド・バレエは十数年毎夏の定番イベントとして定着していましたが、オーナーから、「最初の年は、観客はわずか7名でしたよ。立ちあげは厳しいことを覚悟しなさい」などいわれてしまいました。そう聞くと、「オープニングには、ホールの2/3以上は埋めてみせる! それをもって成功の目安としよう!」とかえって闘志をかきたてられたものです。
とにかく、山梨新聞やNHK甲府放送局の局長に協力依頼をし、三木氏のインタビュー記事を載せてもらうなど広報に力を入れ、Websiteも写真・記事・観光案内と中味を充実させました。
白樺派の作家・画家が提唱し、吉井長三氏が私財を投じて建設した清春芸術村というのが近くにありました。美術館や、樹上の茶室、12角形のユニークな建物のアトリエなどが印象的な総合芸術施設です。カフェもあってゆったり落ち着いて自然のなかで、特別な時間を過ごせる場所です。
オーナー吉井氏を銀座の画廊に訪ね、カフェを日曜日の午後に貸し切りにしてもらいました。
そこのテラスで、オークションを行い、周りの広場で、県の特産品のワインや果物、農産物を売るという企画をたてました。
オークションの品物は、山梨の有名企業さんから、各社1~2品 “これぞわが社自慢の・・・”という品を寄付してください、と厚かましくもお願いしました。昔のパイロット・クラブでの経験が生きました。
コンサートの幕間には、特産品のワインが飲めるようにしようと、飲食厳禁の条例の網をくぐって、ワインを供し、県外からお呼びした大勢のお客様に喜んでもらいました。条例の及ぶ範囲は内部のみ、ベランダは外だから、条例の及ぶ範囲外だ!という名案を出してくれたのは、例のプロジェクトチームの若い優秀なメンバーでした!
地域おこしを兼ねたプロジェクトなので、ぜひとも都会の人たちにこの地域の良さを堪能してもらおうと、泊りがけのコンサートにプラス地域の魅力ということで、HPに穴場の観光案内を載せるやら、温泉付きホテルを半分(Twin40室ほど)とペンション1棟を期間中借り上げ、宿泊の便宜を図るやら、地元の関心を集めるために、プリイベントとして小さなミニ・コンサートを開くやら、考えうる知恵をだしまくり実施しました。結果、県外から150人・日お呼びすることが出来ました。
第1回八ヶ岳国際音楽祭は、開場前から長い行列ができるほどの盛況で、私が心ひそかに決めた“客席の2/3以上埋める”、をはるかに超えて初日を迎えました。
ホテルから、ホール、オークション会場などへの交通は、ホテル/ペンションの送迎バスと、ボランティアさんの自家用車での送迎で、乗り切りました。
オークションも素敵な芸術村で、参加者は景色や調度を楽しみながら、山梨の特産品・銘産品をお安く手にいれ大満足。また物産即売所もあり、多彩な楽しみを提供できたと思っています。
日曜日の夜は打ち上げパーティで、県や市の要人、地元名士たち、音楽関係者、ボランティアさんの参加で、大盛り上がりで幕を閉じました。この時の友人達との交流は、その後もずーっと続いています。
三木氏の音楽の力と大勢の地元の方々や結の会メンバーの協力があったからこそ、出来たことだと思います。本来の仕事とは違う4か月ですが、私の人生の宝物となる思い出です。
かながわ女性会議と幻の「女性のビジネスセンター」
さて本業の方ですが、国や県の委員会委員活動のほか、女性のエンパワーメント関係講座(IT系講座、起業講座、中堅管理職向け講座)、男性管理職向け講座などで忙しく過ごしていました。
2008年2月、神奈川県の男女共同参画審議会の会長として、男女共同参画推進プランの改定案を知事に提出しに行きました。米国ではクリントン氏(女性)とオバマ氏(非白人)が大統領選で、競り合っていました。「どちらが大統領になっても、米国初になるね」という話から、「江の島の女性センターを、日本初の女性のビジネスセンターにしませんか?」と言ってみました。
かながわ女性センター(会館)は、風光明媚な江の島に立派な3階建ての建物に、大ホール、大小会議室等を備え、3Fは宿泊施設、DV被害者の一時避難場所であるシェルターもあり、設立当初は、全国から見学者が後を絶たなかったほど、と言われる施設です。ぜいたくな作りの女性センターは築25年を超えて大規模修繕の時期を迎え、あちこちに痛みが出ており修繕費用がかさむので、いっそ売ってしまおうか、という話が出ていたのです。
大まかな構想を話していると、知事は興味を示したので、提案書に纏めてお持ちします、と言いました。
私は、(1)かながわ女性センターの歴史的な意義と機能を最大限活用する、(2)江の島という日本有数の景勝地・観光地の利点を活用する、(3)日本のみならず、アジア、世界などを見据えた発展性のあるセンターとする、をコンセプトの中核におき、具体的な方向性を定めました。
まず女性の得意な分野のビジネス展開(レストラン/カフェ、マリンスポーツ・同スクール、美容と健康・同スクール、近郊ツアーデスク、子供の健全育成にかかわるビジネスなど)をはかり、同時に、この分野の人材育成教育機能・必要な法律・特許その他の支援機能を併設し、インターンシップの場としても機能させる。つまり世界に羽ばたくユニコーン企業を輩出し、かつ地元もともに繁栄するというコンセプトです。
1週間後に提案書を提出すると、知事はいたく気に入ってくれ「すごいアイディアだね、センターをよそに渡してしまうのはもったいないと思っていた」と言ってくれました。そこで、PJ が新たに作られて直ちに動き出す・・・とはならないのが、お役所仕事です。
まずは本件の担当は男女共同参画課になりました。私は課の人達から「これをやるなら、かながわ女性会議の代表にならなくては」と言われ、覚悟を決めて、歴史的意義しか知らなかった女性会議の代表就任を引き受けました。
かながわ女性会議(人的ネットワーク)は、センター建設(はこもの+拠点機能)、女性プラン策定(政策)とともに3本柱の1つとして形成された、日本初の男女平等を目指す任意団体です。母体は、1975年の国連「国際婦人年」を契機に、学習を重ねてきた女性有志と、賛同して集まった52女性団体のメンバー有志から形成されました。しかし当初から、事業を行って自立する、という考えはさらさらなく、県の呼びかけで作られたのだから、県の予算で運営されるのが当然といった風潮でした。
運営も、当初は潤沢に県の予算から補助金が出ていたようでしたが、年々県予算は削られ、私が就任した時点では、事務局員1名の給与の8割が補助金として支給されるのみでした。
社会は、リーマンショック後の経済不況でますます厳しく、ある日いきなり来年から補助金は0になるから、どうやって運営するかプランを翌日までに持ってくるように言われたりしたものです。
そこで会をNPO 法人に変更し、積極的に自立を目指して国・県・県下の自治体から委託事業や、助成金を得て、事務局員を継続雇用できるようにする、という案を提出し、積極的に事業に乗り出すことにしました。
しかし、事業などやりたくない、という会員が非常に多く、NPO法人化は難航しました。
彼らを説得しつつ、一方では、法人化を待たずに、様々な事業委託や助成金に挑戦し始めました。事務局員1人の給与250万円を捻出するためには、事業の10%は事務作業量と考えられるから、その10倍の事業量を確保しなければなりません。ということで、県や県内市町村から、DV被害者支援関連の事業委託を受けられるよう、提案書を書きまくって、いくつかをゲットし、なんとか、事務局を維持できる目途を付けました。
反対派会員を説得するのも大変な時間と労力を費やしました。が弁護士のアドバイスを得て切り抜け、法人化を果たしました。
さてきっかけだった、女性のビジネスセンターの件は、「女性センターのあり方検討委員会」なる委員会が招集されて、1年半にもわたって議論を重ね、変革と、従来路線で行くという2論を両論併記という答申になりました。
それをうけて、県は、女性センターの改革案を公募で募集する、1位の提案には、さらに詳細設計を有料で発注する、それを見て最終決定を下す、というのです。私が知事に提案書を出してから、2年半が過ぎようとしていました。
公募には、なんと40件近く、中には有名建築設計事務所も応募していました。社会は不況が一段と激しく、小さな案件にも沢山群がってくるという状況でした。
“女性のビジネスセンター”案を提示したのは、私のコンソーシアムだけでしたが、公開プレゼンテーションを経て、選定委員会が選定したのは、私の提案も含め3社、1位は横浜の建築事務所案でした。1か月の公開縦覧後1位が確定し、詳細設計を発注したと聞いています。
知事は、私に会うたびに「江の島のプロジェクトはちゃんとやりますからね」と言っておられましたが、東京都知事の改選時期に当たり、神奈川県知事をやめてそちらに転向し、本プロジェクトは振出しに戻ってしまいました。
どこが1位になっても、私は、女性のビジネスを推進する事業なら何でも協力する気でいましたが、1位の建築事務所の詳細設計はどうなったか、センター長に聞いてみましたら、「べらぼうな改造費用を提示されたので、そのままオクラに入っているよ」ということでした。
幻と消えた「女性ビジネスセンター」事件でした。
問題の女性センター会館は、次の知事に代わった際に真っ先に取り壊されてしまいました。五輪会場にするという案と相まって。
並行してこの数年を、女性会議の自立のための事業を増やそうと孤軍奮闘していましたが、なかでも面白い事業があるのでいくつか紹介しておきます。
バジル・プロジェクト
女性が活躍するうえで、大きな問題は「子育て」です。母親の大きな関心事は、保育園に入所できるか否か、とともに、いかに子供が健全に育つか、ということでしょう。親子だけの密室育児のマイナス面を見れば、もっと地域の人たちの助けがかりられる社会が求められているのではないか?地域のシニアも、最新の子育てテクを学べば十分手助けができる、孫世代の子どもと一緒に遊べたら、シニアも元気になる!一石二鳥も三鳥も・・・と欲張りなことを考えました。
江戸時代だって、子供は町で育てるものでした。「三つこころ、六つしつけ、九つことば、十二ふみ、十五ことわり(理)で末きまる」、と地域のみんなが子供を見守り育てた、といわれています。
神奈川県の子育て支援課から企画提案事業の公募があり、このような観点での調査業務を提案し受託しました。調査結果は、きっかけと、スキルがあれば、子育て世代も、シニア世代も、助けを借りたい、助けたい、というものでした。
続いて内閣府から、地域にこのような助け合う仕組みを構築し広める調査研究業務を受注しました。
地域のバーバとジージが頑張ル:バジル・プロジェクト と命名しました。
他人がかかわるので、何よりも「安心」を担保できる仕組みが、重要です。
「バジル」は、地域の子育てに手を貸そう!という意思のある人、「バジル・マイスター」は、バジルの中でも、品性、スキルともに備わったバジルの中核となる指導的立場の人としました。
バジル・マイスターになるためには、救急救命の資格、NEALリーダー(自然体験活動リーダー)資格とともに、このプロジェクトで新たに開発した、6講座【1週間】の研修を終了し、さらに認定委員会の認定を得て初めてなれる資格として設定しました。
最近耳にする、育児放棄などはこういう仕組みが機能すれば、格段に件数は減っていくでしょう。孤独な密接育児をなくそう!というのが、このプロジェクト の趣旨でした。
逗子市で若いお母さんたちの子育てたグループと協力して、何回かの試行も重ね、いい感じで展開可能という結果も得ました。
即戦力講座「NPOマネジメント講座」
安定的な事業を求めて、ハローワーク経由で公募される「NPOマネジメント講座」にトライすることにしました。21世紀は、NPO活動が経済活動の大きな部分を占めるようになる、というのが、有識者の見方ですが、日本はNPOに関する知識や正しい運営の在り方や、マネジメント/ガバナンスは定着していない。しっかりした教育コースが必要だが、あまり現存していない、という現実がありました。
公募要領に、4か月間の「NPO マネジメント講座(インターンシップ付き)」がありました。NPOで起業したい人、NPOの管理職・職員になれる人を育成するコースです。即戦力とあるからには、講座受講後75%の就職率(起業率)がターゲットとされます。
ほかにまねできないコースとして一度構築してしまえば、毎年入札にしても受注可能ですし、時代の要求にも応えることにもなり、女性会議の安定的な収入源になると思われたのです。
2012年のことです。思い立ってはみたものの、簡単なことではありませんでした。講座実施時の実施場所の確保(半年前の提案時)、実施後後払いのため4か月間の講座費用負担、広範な講義エリアから、優れた指導者に講義をお願いする人選・スケジューリング、インターンシップ先の選定・依頼と承諾の取り付け等々、準備に膨大な労力を要しました。
しかし、これを女性会議のメイン事業にしようと、講座内容を思い切り充実し、大学院の修士課程レベルかなぁ、というくらいの講座にしました。さらに3日間の「就活EXPO」を受講生自ら企画実施し、卒業の条件というか、記念となるようにしました。
非常にいいコースでしたが、30名定員で、損益分岐が初年度25名、次年度20名で作成しましたが、18名とか15名とかの応募しかなく、また途中で落ちこぼれる受講生も出ますので、どうしても赤字になってしまうのです。まだまだ「NPOで働く」ということが、一般には理解されていなかったといえるでしょう。
受講生の満足度は極めて高い、というのがせめてもの慰めでした。受講生たちとは今でも、Facebook でつながっています。
NPOってなに?というレベルから、実際にNPOを立ち上げられるところまでしっかり教え込み、また現場を経験する、というコースは、ほかにはないものとして、今後の社会に、役立つコース開発ができたと思っています。
江の島EX塾
日本の、とくにビジネス界で女性の活躍が進まないのは、やはりリーダーが少ないからだろう、という思いはなかなか消えず、ならば、リーダー養成と彼女たちのネットワーキングをかねて、日本の男女平等施策拠点の江の島の女性センターを会場に、合宿セミナーをやってみようか。またその具体的な内容は、募集で、企画・運営を任せてみてはどうだろう、その間の費用・経費は、支払えるようにしよう、と考えました。実施に勝るスキルアップはないからです。
すべての経費を賄うため、(公財)俱進会から助成金を、さらにようやく日本社会で始まったばかりのクラウド・ファンディングを利用し、各50万円ずつをゲットする方法を考えました。
これも初めての試みとして、この江の島EX塾のプロモーション・ビデオを作成しました。
自治体主催のビデオ制作講座を自ら受講し、2日間で大体の骨格を作り、後は参加の企画部員に任せて、講師のアドバイスを貰って、完成。すぐにYouTubeに乗せました。
この江の島EX塾企画も大変好評で、2年目に講師としてお呼びした当時JKSK理事長だった木全ミツさんから、これをWEB上でやってみない?との提案を受けて、リアルではどうしても数が限られてしまうし、今後のことを考えれば、WEBマガジンとして続けていくのも悪くないな、と考え、現在のかたちの「女性100名山」がスタートしたのです。その後、オンライン相談室、オンラインフォーラムへと発展させてきました。
幻と消えた女性のビジネスセンター構想とともに、たくさんの事業の種をまきつつ、女性会議の代表を2014年に終えました。
ニートの就業支援事業―― 地域若者サポートステーション
厚労省主管事業で、ニートの若者たちの就職支援を行う「地域若者サポートステーション(サポステと略す)」が2015年当時全国で160余り設置されていました。神奈川県にも6か所あって、1年前に新設された、かながわ県央地域若者サポートステーションというのがありましたが、ちょっとごたごたがあって、全メンバー入れ替えという事態になり、所長の人選に困っているので所長を引き受けてくれないか、と依頼されました。
ニートの若者たちを支援するのは初めての經驗です。迷いましたが、困っている人を見ると、放っておけない私の性格で、気が付けば引き受けてしまっていました。結局それから2年間も所長を務めることになりました。
急遽集めた相談員なので、週3日勤務、2日勤務、1日だけ勤務、という約10名のスタッフ。それも親が病気で倒れた、認知症が始まってしまった、夫が緊急手術・・・ というような年齢のスタッフばかりなので、毎日のように誰かが、今日は出勤できません、と電話してくるようなオフィスです。
密なコミュニケーションが必須です。それとクライエントの相談内容や個人情報のセキュリティを両立させるためには・・・と知恵を絞りました。
簡単で、確実、しかもセキュリティを守れる方法として、当時無料で提供されていたグループウエアを採用し、手書き記入の1か月の出欠予定カレンダーを、皆に見えるような定位置に置き、変更は直ちに更新するようにしました。ハイテク・ローテクの組み合わせです。
就任2、3か月で、ニートと言われる人たちについて沢山のことを学びました。声がちゃんと出ない人、お金の概念がまるでつかめていない人、小さなことにひどくこだわって仕事ができない人、どこから見ても健康で明るくて、はきはき応対できるのに1日2日で仕事をやめてしまう人、などです。またバックにある家庭の事情についても、もしかしたら、家族の対応がニートを生み出したり、助長している場合があるかもしれないケースが多々ある、などです。
何よりもショックを受けたのは、やってきた若者たちに「仕事」感を尋ねたら、「苦しい・・・、ノルマ、怒られる・・・」という言葉が返ってきたことでした。
これはいけない!子どもにも親にも、適切な知識と教育・トレーニングが必要だ!と痛感しました。
ニートの若者向けに「お仕事まるわかり講座」を開発しました。「仕事の基本のキ」のほかに、声の出し方、良い姿勢を保つこと、健康を保つための体操やマインドフルネス、グループワークの実習を含む、4日間8講座のコースです。1日出席しただけで、ガラッと様子が変わる(もちろん良いほうに)若者がいたりして、そういうことを経験すると、やめられなくなってしまいます。これは今でも人気コースで、所長を辞めた現在でも、年に数回はこの講座を自ら実施しています。
この事業によって、シニアの働き方のモデルも得られたと思うし、ニートや家族にも適切な情報やトレーニング機会を提供できれば、労働力不足や・スキル不足という課題にも対応できると思うのです。
人間の可能性を信じて生きる
企業を飛び出して、非営利セクターに身を置きほぼ四半世紀、様々な組織にかかわり、さまざまな事業に手を染めてきました。そしてどんな経験も、その時はしんどいなぁ・・・と思っても、それを乗り越えた時の楽しさは何にも代え難い。
どんな人でも輝いて生きる力を持っています。それを発揮し、社会に役立てることを楽しんでほしい。そのためにこれからもささやかなお手伝いを続けていきたいと思っています。
そしてコロナ禍のような災厄も、こういう人間の叡智を結集すれば、新たな世界が生まれると信じています。できればその世界を見たいと願っています。(完)