マクギネス 真美(まくぎねす まみ)

The 21st Century Creative LTD. ダイレクター
ライフコーチ・ライター・ポッドキャスター

同志社大学文学部 美学及び芸術学専攻卒業。
広告代理店プランナー、財団法人でのイベント担当、機関誌編集を経て26歳で大学時代からなりたかった念願の雑誌編集者に。
以降、1000名以上の著名人へのインタビューをはじめ、各業界トップクラスのプロフェッショナルの方々と仕事をする。2000年シニアエディターとなり、編集業務以外にマネージメントにも携わる。
編集を手がけた歌人俵万智さんの書籍『花束のように抱かれてみたく』は発売5ヶ月で5刷に。
2003年に渡英。UCL(ロンドン大学)外国人学生のための英語コースにて苦しみつつ1年間学ぶ。
イギリスを拠点に編集者・ライター・レポーターとして、書籍、雑誌、ウェブマガジン等への寄稿、ラジオ番組への出演などに携わり、朝日新聞デジタルではコラム『ロンドンジャーナル』連載。
在英情報誌『英国ニュースダイジェスト』では、コラム『英国の口福を探して』を連載した英国料理とお菓子の研究家でもある。
42歳の時に緊急帝王切開で男女の双子を出産。産後うつ、更年期症状での苦難の中で自分と向き合い、セルフディベロプメントの学びを続けて自己理解を深め、ライフコーチとして独立。
ビジネスパートナーでメンターで夫でもあるCreative coachのMark McGuinnessとともに会社を経営。現在は、グローバル日本人として生きるリーダー、経営者、起業家、社会事業家の最高の理解者で最大の応援団として、人生の転換期に「チャレンジ」している方の人生に伴走し、それぞれの方が「本当の自分」で人生を生ききるお手伝いをしている。
ウェブサイト:https://mamimcguinness.com/


 私は2003年からイギリスに住みはじめ、今年で在英23年となりました。現在はオンラインのコーチングセッションにて、日本はもとより、世界中に住む日本人の方々をサポートさせていただいています。

 思えばイギリスに来てからも来る前も、人生においては本当にさまざまな出来事がありました。それには、とてつもなくうれしいこともあれば、苦しいこと、悲しいこともたくさんありました。

 今回「女性100名山」への執筆の機会をいただき、あらためて人生を振り返った時、まさにアップル創業者スティーブ・ジョブズのいう「コネクティング・ザ・ドッツ(connecting the dots)」を身にしみて感じています。それはつまり、それぞれの時点で「この経験が将来役に立つ」と計算して点を打つ(経験を選択する)ことはしてこなかったけれど、今振り返ってみると、過去のバラバラな経験が、全て今の自分の人生に線となってつながっていると感じられるという意味です。

 そして、自分の経験だけでなく、出会ってきた方々の人生を通じて学ばせていただいたことも糧にして、今、コーチとして、人生の分岐点に立つ方々の、決断や挑戦に伴走させていただけていることに、あらためて感謝の気持ちがあふれてきます。

 これまでの私の経験が何かひとつでも読者の方のご参考になればと、今回、私の半生についてお話させていただきます。

就職試験に100回落ちても編集者になりたかった

 三重県で生まれた私は、体が小さくて弱いと、いつも母から言われていました。幼稚園から中学3年生までは愛知県で育ち、両親の離婚を機に親戚を頼って高校時代はまた三重県で過ごしました。


 子どもの頃は絵を描いたりものを作ったりするのが好きで、中学時代は漫画家に憧れ、高校時代は絵本作家に憧れたものの、美大や芸大は無理だとあきらめました(当時、芸大を目指していた同級生たちは皆、美術学校予備校に通っていて、経済的にそんな余裕のない自分はどうせ受験しても無理、と勝手に思い込んでいたのです。実際にはチャレンジする勇気がなかった言い訳もあったのかもしれませんが、母が経済的に苦労していたのを見ていたことで、子どもながらに我慢すべきと思ったのかもしれません)。

 国立一本に絞った大学受験に失敗した時、働きながら夜間のデザイン学校にでも通って、将来、アート関係の仕事でもできたら、と漠然と考えました。ところが、母から「大学だけは行かなあかん」と強く勧められ、母が苦労して貯めた学資保険を使って一浪させてもらいました。

 一年目と同様、国立大一本で受験に臨むはずでしたが、せめて受けるだけでも、と予備校の先生に勧められて受けた同志社大学。学費免除という制度があったおかげで、一浪ののち同校の文学部、美学・芸術学専攻に入学しました。
そして、私の人生の恩師とも言える方が住んでいる、大好きな京都で4年間楽しく(生活費を稼ぐためにアルバイト三昧ではありましたが)暮らすことができました。

 学生時代は本や雑誌を読むのが大好きで、特に気に入っていたのがマガジンハウスから発売されている『BRUTUS』という雑誌でした。実は大学時代には「将来こんなことをしたい!」といった大きなビジョンなどはなかったのですが、就職活動の段階で「こういう刺激的な雑誌をつくる人になりたい」と思い、雑誌編集者を目指しました。

 当時は、出版社をはじめ新聞、テレビといったマスコミは大変な人気職種でした。第一希望はマガジンハウスでしたが、就職活動では出版社、新聞社、テレビ局も含めマスコミ関係の試験を受け続けました。
 この業界の企業はほとんどが東京にあり、筆記試験、一次面接あたりまでは交通費や宿泊費は自分で工面して京都から東京まで通わねばならず、訪問企業数が増えるにつれ、アルバイトで生活費を賄っていた私には経済的にかなり負担を感じる状況でした。
 マスコミ関係の試験にことごとく落ち続ける中、新宿にある小さな広告代理店の内定をもらいました。その直後、人気雑誌を出版している中堅出版社の役員(最終)面接に呼ばれたのですが、結局、その面接試験を自ら断ってしまいます。「なぜ、あの時、面接に行かなかったのか?」とその後、後悔することになりますが、その時点で私は、すでにたくさんの不合格通知を受け取りすぎて、心身ともに疲れていたのかもしれません。
「代理店でプランナーになれるのだから!」と、まるで自分に言い訳をするようにして、あまり興味が持てなかった広告業界でキャリアをスタートさせました。

編集への転職

 ところが、入社2、3ヶ月で「やっぱりこの仕事じゃない。編集者じゃなきゃダメだ」と気づきました。それからは「どうやったら編集者になれるか」を考え続けました。そして、当時、池袋の西武百貨店で開催されていたコミュニティカレッジ内にあった夜間の編集コースに通いながら、出版社の第2新卒や中途採用の試験を受け続けることとなりました。

 実は、いちばん行きたかったマガジンハウスは、新卒時、第二新卒、中途採用……と合計4回挑戦しました。結果は4回とも不採用。小説や映画なら4度目の正直で採用されて感動のエンディングになりそうですが、現実の人生ではそうはいきませんでした(笑)。でも、4回目の挑戦では最終役員面接までいき、そこで不合格となったため、ようやく自分でも「ここまでやってもダメだったのだから、編集者としてこの会社で働くということには、ご縁がなかったのだ」とあきらめがつきました。

 そして、新卒時から数えると100通以上の出版社の不採用通知を受け取り、26歳でようやく憧れの雑誌編集者になることができました(新卒時から数えて4年かかってようやくのことでした)。

 雑誌編集者としては約10年近くの間、1000人以上の著名人、日本でトップクラスの写真家、スタイリスト、ライター、デザイナーといったクリエイターの方々、各分野のプロフェッショナルの方々とお仕事をさせていただきました。ほんとうに、ワクワクしたクリエイティブで刺激的な毎日でした。
 雑誌編集者になる前は、実際の仕事がどういうものか知らずに、それでも「自分は絶対編集者の仕事が向いている」と思い込んでいました。実際に編集者になってみて、やはり自分はこの仕事が大好きだ、と実感できたことは本当に幸運でした。

 当時は「ブラック企業」などという言葉はもちろんありません。深夜残業や取材や撮影で休日出勤も珍しくなく、超絶忙しい日々でしたが、尊敬する上司や先輩、同僚に囲まれ、何より自分が本当に素晴らしい、好きだと思うものを世の中に伝える仕事ができて、毎日が楽しく、充実感を味わう日々でした。
 連日、誌面作りについて真剣に議論したかと思えば、深夜、ようやく仕事を終えて編集部みんなで神保町のバーに行って、大声で騒いで出入り禁止になりそうなこともありました。今思うと、あんなに本気で物作りに取り組めた仲間がいたことは、何にも変え難い貴重なことだったと思います。

 そんな楽しい編集者時代でしたが、30代になって編集デスクとなり、スタッフのマネージメントの仕事が増えました。その頃から、編集の現場の仕事をやり続けたいけれど、全部をやるにはあまりにもオーバーワークになっていました。大学病院でMRIの検査をしても原因がわからない、体調不良が続くようになりました。このまま体を壊してしまったら、会社が私の面倒を見てくれることはないし、もしそうなれば、どうやって将来、母の面倒を見られるのか。そんなことを考えると不安になり、まずはとにかく体調を戻さなければならないと思いました。そういうわけで、大好きだった編集の仕事を辞める覚悟を決めました。というのも、当時は体調不良による長期休暇などの制度はなく、バーンアウトする前に仕事をストップするには会社をやめるしか選択肢がないと思っていたのです。今思えば、人に相談することもできず、「白か黒か」「0か100か」といった二極思考に陥っていたのかもしれません。

 結局、次の就職先を決めることもせず、まずはとにかく「休む」こと、「体調を戻す」こと、を求めて会社を辞めました。体調が少しよくなってから、職業安定所で申し込んだホームページ制作のコースで学んだり、地元で日本語ボランティアをしたり、区が運営する市民講座で朗読を学んだりと、仕事をしていた時にはできなかったことをやりながら将来について考えたていたとき、海外でボランティアをしたいと思いつきました。

 30歳を過ぎて、大学時代に貸与してもらった育英会の奨学金を完済したのち、初めて母を連れて海外旅行をしたのがタイでした。それ以来、タイが大好きになった私は、何度もタイへの一人旅を重ねるうちに、タイの貧困層のことを知り、ほんの少しですが、毎月タイへのチャリティ募金をしていたのです。
 それがきっかけで、海外ボランティアに思い当たり、JICA海外青年協力隊に応募しました。
「世界のどんな辺境の土地へでも行く!」と情熱を持って試験に臨んだものの、残念なことに最終面接で落とされてしまいました。

アシアナ航空の片道切符でイギリスへ

 その後、2003年にイギリスにやってきました。「どうしてイギリス?」とよく聞かれますが、特別立派な理由があったわけではありません。青年協力隊には落ちたものの、なんとなく「ボランティア」や「チャリティ」に心が残っていました。

 ある日、当時住んでいた中目黒の図書館で『イギリスでボランティア』という本を見つけて、そこに、イギリスでは英語が流暢でなくても、1日からでもボランティアができる、と書かれていたのをみて、イギリスについて調べ始めました。ブリティッシュカウンシルに行ったり、留学フェアに出かけたり、留学雑誌などで調べて(当時は今ほどネット情報が豊富ではありませんでした)、アートにもたくさん触れるチャンスのあふれたロンドン行きを決めたのです。

 それまでは大好きだったタイをはじめ、ベトナム、インド、ミャンマー、台湾などアジアへ何度もバックパッカー旅をしていましたが、当時の私の英語はカタコトもいいところ。その上、イギリスにはそれまで一度も行ったことがなく、知り合いは一人もおらず、もちろん仕事のあてもありませんでした。将来的には、シングルマザーで私と姉を育ててくれた母の面倒をみると決めていたので、イギリスには1年か長くても2年間の滞在で、日本に戻る予定でした。
 英語を少し話せるようになりたい、ということと、編集者時代に興味があった写真の勉強をしてみたい気持ちもあり、まずはロンドンに行ってみてから決めようというくらいで、明確な計画も予定もありませんでした。

 今思い返すと、あの時はただ「イギリスに行ってみたい」という気持ちだけで出発したようなものでした。母を心配させたくはない一方で、20年後に「あの時、行っておけばよかった」と後悔するのは嫌だと思ったからこそ、将来のあてはないけど行ってみようと決心できたのだと思います。

 そして、たったひとりの知り合いもいない、それまで一度も来たこともなかったイギリスに、当時、最も安かったアシアナ航空の片道切符で向かったのは36歳の時でした。

ロンドンに初めてやってきた日の日記

英国人と結婚。42歳で双子の母に

 1年か2年で帰国するはずだったのに、イギリスで現在の夫と出会いました。

 結婚を決める時には、考え過ぎて頭が痛くなるほど悩みました。なぜなら日本には、シングルマザーで苦労に苦労を重ねて私たちを育ててくれた母が待っていたからです。将来は自分が母を支えるつもりだったのに、イギリスに残る人生を選んでいいのだろうか。自分だけ幸せになっていいのだろうか……と、何日も何日も悩みました。

 実は、日本で編集者として働いていた時には、自分が結婚することなど想像もしていませんでした。当時は心のどこかで、自分は一生独身で、仕事をしながら母の面倒をみていくのだろう、と思っていたのです。結局、私は夫と結婚し、イギリスで暮らすことを選びました。日本にいた時には思ってもいなかった人生の成り行きに、自分でも驚いていました。今考えても、あの時、よくそんな決断ができたと思います。

 イギリスに暮らしはじめて一年を過ぎた頃から、編集者時代の雑誌や、知り合いの紹介などでイギリスでの取材、執筆を手掛けるフリーランスの編集&ライターの仕事をするようになりました。とはいえ、それほど頻繁に仕事があるわけではありませんでした。

 2年間お世話になった下宿先を出て、夫との生活が始まってからは、家にひきこもったような状態で、イギリスの天気の悪さ(冬の暗さ)で落ち込み気味の日々が続きました。このままではいけないと、高級日本食レストランでのバイトを始めたのは結婚して数ヶ月してからのことだったでしょうか。

 そこではソマリア人、マレーシア人、フランス人、ポーランド人、スペイン人など多国籍な人々と働きました。寿司バーには日本人がたくさん働いていましたが、カタコトの英語しか話せない私にも関わらず、私にとっては非日本人の人たちとの会話のほうが楽しかったことは、良い思い出となっています。
 今も使っている「マミータ」という私のニックネームは、ペルー出身のシェフが名付けてくれたもの。スペイン人シェフたちからも呼ばれて気に入っていたものです。

 そして、このバイト先で知ったのは、戦禍を逃れてイギリスにやってきたり、自国で大変な目にあったりと、それまで過酷な人生を歩んできた人も、同じご飯を食べて、同じジョークで笑い、同じように母国にいる家族を思いやっているということ。国籍や習慣や文化が違っても、皆同じ「人間」なのだというシンプルな事実でした。

 その後、当時書いていたブログを見た日本のメディアから取材や執筆の依頼が増えてきたこともあり、バイトを辞めることにしたのですが、あの時、本当にさまざまな国籍、年齢、考え方の違う人たちと仕事をし、一緒に笑い合うことができたのは、イギリスに住んで良かったことのひとつであることは間違いありません。

双子との出会いと暗闇の中での模索

 そして42歳で男女の双子を緊急帝王切開にて出産。時代が時代なら親子とも命の保証はなかったという状況でしたが、イギリスの医療に救ってもらったことは一生感謝してもしきれることはないと今でも思います。

 さらにここからは、それまでとはまったく違う人生が始まりました。というのも、初めての双子出産(海外で)と、一気に2人の乳児を育てる毎日という現実は、私にとって想像を絶する過酷さだったのです。

 夫も私も個人事業主だったため、育児休暇手当などもなく、夫が家計を全面的に支えてくれながら育児も200%担当してくれていましたが、それでも私自身は、毎日をやり過ごすのが精一杯な状況でした。

 夜中にソファで授乳をしながら居眠りをして、赤ちゃんを落としそうになって、ひやっとしたことがありました。また、気がつけば「3日間もシャワーを浴びていない」状態になることもありました。当時は「双子がいるせいでシャワーすら浴びられない」など全ての原因を双子に結びつけて、さらには「なんでイギリスに来たんだろう」「私はなんでこんなことをしているんだ」と考えては、自分という存在、自分の人生について、相当彷徨っていた時期でもありました。

 冗談めかして「産後うつ6年」と友人に言っていたのですが、実際には決して冗談ではなく、更年期症状も重なって肉体的にも精神的にも苦しい状況が続いていました。この苦しさからなんとか抜け出したいと、必死にもがいて、育児書を読み漁り、育児コースを受けたり、育児に関するポッドキャストを聞いたり、セミナーに通ったり、マザーズコーチングなども学び、ありとあらゆることを試しました。

 子どもができるまでの私は、うまくいかないことや失敗は数えられないほど経験してきましたが、それでも就職して独立してからは、大抵の場合は自分で自分の人生を選択してきました。でも、子育てでは自分が思ったようにやるだけではうまくいかないということをイヤというほど気付かされることになりました。なぜなら相手は自分とはまったく違う生身の人間だからです。そして、育児についての様々な学びをする中で、向き合うべきなのは子どもたちではなくて、自分自身だということに気づきました。

もう一度、「好きだったこと」に戻ってみた

 ある時、あまりに疲れていたせいか、電気ケトルをガスコンロにかけようとしていた自分に気づきました。下手をすれば火事になったかもしれないこの件で「このままではいけない」「このどん底を抜け出さなければ」と本気で考えるようになりました。

「子どものことや他のことは考えなくていいとしたら、マミは本当は何がしたいの?」

 コーチをしている夫からそう聞かれた時、最初は何も答えられませんでした。自分の好きなことをしていい、と言われても頭の中が真っ白でした。自分の人生を自分で選んできたつもりの私が、自分が何をしたいのか分からなくなっていたのです。
でも、夫は根気強く何度も問いかけてくれました。


 それから、私は自分の人生を振り返りました。
「私は何をしている時が、一番幸せだったんだろう?」
思い出したのは、編集者だった頃の自分でした。そして気づいたのが、編集者として私が好きだったことはたくさんあるけれど、なかでも人の話を聴くことが大好きだったということでした。当時、お仕事をご一緒した方たちが、仕事が終わったあとに食事に誘ってくださり、悩みや本音を話してくれることがよくありました。私は別に何かアドバイスをしたわけではありません。ただ、聴いて、時々思ったことを伝えていただけです。でも、著名人だったり、成功者と言われる人たちは普段、周囲の人には言えないことが色々あるようで、私と話す時間を楽しみにしてくれていたようでした。そして私はとにかく人の話を聞くのが好きなので、心から興味と好奇心をもって、何時間でも相手の話を聞いていられたのでした。
 そんなことを思い出しながら、コーチングと編集者の仕事はとても似ているということに気づいたのです。違うのは、コーチングはただ話を聴くだけではなく「変化を起こす」ことを支援するものだということでした。

今も学びの途上。人生で大事なのはゴールではなくプロセス

 ライフコーチになると決めてからも、順風満帆だったわけではありません。というよりも50歳を過ぎての新たなキャリアへのチャレンジは紆余曲折だらけです。

 とはいえ、これまでの人生も真っ直ぐな道を歩いてきたわけではないので、時間がかかったり、遠回りすることにはかなり耐性がついています。だからこそ、現在もコーチングを学び続け、コーチやメンターから学び、そして自分がコーチングを受けながら、長い時間をかけて自己成長の学びをし、我が身をつかって実践、実験を続けてこられたのだと思います。


 双子が幼い頃は、子どもたちにイライラしたり、怒鳴ったりしたこともあった私が、徹底的に自分に向き合い、ひとつずつ取り組んできて、今はティーンエイジャーとなった子どもたちと最高の関係を築けています。もちろん、うざがられたり、あきれられたりすることもありますが(笑)、それでも一緒にライブに行ったり、友人のこと、学校のこと、お気に入りの音楽やアーティストについてなどを娘と息子、どちらとも何時間もおしゃべりできる関係なのは、本当にありがたいことだと感じています。

 また、その子どもたちと一緒にボランティア活動をしたり、チャリティカフェでボランティアをしたりと、渡英当初の目的のひとつであったチャリティ活動も、自分なりの形でできるようにもなりました。

娘が幼い頃の手紙。何年ぶりかにこれを読んで号泣してしまいました。

これから

 自分にとって大切なものを大切にできるようになったのは、子どもたちに出会えたから。夫に出会えたから。そう思うと、苦しかったことのどれひとつも欠けては今の自分はありません。
 また、私をまるで本当の娘のように接してくれる義父母、一人暮らしで寂しい思いをさせているのに「寂しいけど真美が幸せなら、お母さんも幸せだから」と言ってくれる母、そして、子どもたちが赤ちゃんの時、片道2時間の道のりを毎週一回、子どもたちの世話をしにきてくれた大切な友人など、多くの人の優しさのおかげで今の穏やかな幸せがあることも忘れることはできません。

 日々色々なことがあって、時に相当タフだったりすることもある人生です。とはいえ、これまでの自分の経験を通じて、たとえ大変なことが起こっても、自分にとって大切なものを大切にできていれば幸せでいられると実感できると思っています。今はその自分のエネルギー(氣)で、コーチとして、さまざまな課題や悩みを抱えながらも、一歩を踏み出そうとしているクライアントの方たちのチャレンジを応援し続けたいと思っています。それが、これまでお世話になってきた方たちへの恩返し(ペイ・フォワード)になるのではないかと思ってもいるのです。


 また、これからチャレンジをしたいと思う方を勇気づけるためにも、人々のライフストーリーをインタビューし、それを多くのかたに伝えることをライフワークとして、グローバル日本人の方々にインタビューするポッドキャスト”The Real You with Mamita”(https://open.spotify.com/show/1myNeUMc7KvpzbfeMYQfFO)でのインタビューを続けていきたいと思います。

ポッドキャストでは日本と世界の橋渡しとなる活動をするグローバル日本人の方にインタビューしています。

 多くの方をインタビューさせていただいたり、イギリスで国籍、人種、習慣や考え方の違うたくさんの人々に出会ったり、またこの女性100名山に登場なさっている方々のお話を拝見しても、本当に誰もが、オンリーワンの、かけがえのない、素晴らしい人生を生きていることを感じます。だからこそ、これを読んでくださったあなたも、ぜひ、あなただけの大切な人生を、思いきり「本当の自分」で生きていただけたら、と思います。