須永 洋子(すなが ようこ)

一般社団法人 スウェーデン社会研究所 理事

須永 洋子(すなが ようこ)
  • 1944 千葉県我孫子市生まれ
  • 1964 (一財)電力中央研究所入所 6年間勤務
  • 1970 スウェーデンとの交流スタート
  • 1982 大正大学入学
    38歳から52歳、大学院博士課程単位終了まで14年間古典文学を学ぶ
  • 1994 スナガハウス開設 22年間スウェーデン人に部屋を提供
  • 2002 (一社)スウェーデン社会研究所 事務局 14年間
  • 2018 (一社)スウェーデン社会研究所 理事 現在に至る

はじめに

私は現在78歳です。私の人生に関わる大きな出会いは夫、昌博(あきひろ)とスウェーデンです。夫との出会い、50年間で6000人のスウェーデン人を自宅に招き、その内の20年間は500人ほどの宿泊者も受け入れた経験、38歳での大学入学、(一般社団法人)スウェーデン社会研究所事務局、30年間の夫の両親との同居と介護などを記すことで何か皆様の生きるヒントになれば幸いです。
私は千葉県我孫子市に1944年に生を受け、父は私が母のお腹にいる時に戦死しました。その時、両親は37歳でした。未亡人となった母は5人の子供を育てるために、家業の醤油製造業をたたみ、農地解放で無くなる生活の糧である土地を守るべく、大学進学を断念せざるをえなかった長兄と共に、40歳から農業を始めました。

当時の女性が如何に過酷な運命にさらされていたかは、想像することしかできません。そのような状況下で、母は2歳の私の面倒を見る時間などなく近所のおばあさんが世話係をしてくれました。私は「ばー」と呼び、いつも私の傍にいてくれたのを記憶しており、その「ばー」の家族や忙しい母、兄姉、近所の人々の愛情のお陰で心満たされて育つことができました。

昌博との出会い

私が高校を卒業した頃は、女性の婚期を気にする時代であった事や経済的理由から、浪人はさせないという母の条件付きで大学受験をしましたが、見事に失敗しました。
19歳になった私は家の近所にあった(一般財団法人)電力中央研究所に職を得、研究室の室長秘書兼研究室事務係をしておりました。そこへ研究者として昌博が入所して参りました。夫は学生結婚しており、当時2人の子供もおりました。色々な本を紹介してくれたり、映画に誘われたりしました。当初は結婚をしているのに変な人と思い、関心を持ちませんでした。しかし、既に結婚生活は破綻状態だったそうです。職場のグループで行く、ホテルもない与論島へテントを担いでの旅や、腰蓑のみで生活する原住民のいるマイクロネシアのヤップ島への旅、組合活動などで共に時間を過ごすうち、彼のどんな人に対しても対等な姿勢や、正直で何に対しても一生懸命でまっすぐな姿勢に心が動き出しました。農業部門の研究室でしたが、トマトの種とほうれん草の種も見分けがつかない昌博は農業の研究者向きではなかったことと外国への興味が失せなかったため、研究所を辞めました。私も研究所を辞め、当時離婚は成立しておりませんでしたが、家を出て一緒に住み始めました。昌博の「俺と暮らしたら、大学院まで行けるよ」という言葉にも心を動かされました。彼は「大学院に行かせてやる」ではなく「行けるよ」と言いました。その違いは、私には大きく感じられました。研究所内で、世間でよくある不倫と興味本位の目を向けられていたかどうかは皆さんの想像にお任せしますが、我々にとっては一緒にいることが必然であり、しっかり一緒に前を向いておりました。その段階で、私は子供を持たないと決めました。

電力中央研究所時代
電力中央研究所時代

スウェーデンとの出会い

1970年、昌博が在日スウェーデン大使館科学技術部、科学技術アタッシェの職を得ました。仕事内容はスウェーデン政府、大学、企業へのコンサルタントです。離婚が成立してからも、しばらくは別姓でおりました。籍を入れる事は我々にとって重要な問題ではありませんでした。一緒にスウェーデンへ行くようになり、パスポートの名前が違うことから生じる不便を、ホテルや航空券購入時に感じることが多く、それがきっかけで籍を入れました。
私と夫はスウェーデンという国に出会ったことで、とても豊かな人生を送ることができました。そして多くの事をスウェーデンから学ばせてもらいました。
例えば夫とスウェーデンに行ったとき、仕事先に私が同行すると、すぐに夫と同じ資料を用意してくれました。須永の妻でなく、一人の個人である洋子として扱ってくれたのです。スウェーデンの社会は、個人を認め対等に扱うという事を最初に感じた瞬間でした。
私たちが、最初にスウェーデン人を自宅へ招いたときは、2Kのアパートでした。世界から日本は「ウサギ小屋」に住んでいると言われていた時代です。夫の仕事に関連して来日するスウェーデン人は都内の大ホテルに宿泊し、一般の家庭を見ることはありませんでした。「ウサギ小屋」でどのような生活をしているかを見てもらうのも、相互理解の一助になると思っておりましたので、たびたび招待することがありました。2Kのアパートでは一部屋がベットルーム、もう一部屋の6畳は客をもてなす書斎でありリビングです。ここで役立ったのが、たしなんでいた茶道でした。道具もあまりなかったので、簡略されお盆でできる盆略手前でお茶をたて、その後すきやきなどの日本食と会話でもてなしました。1.5畳あれば出来る茶道というご先祖様の知恵に助けられました。
スウェーデン人から招待されるパーティでは、私はずっと着物で通しております。新しい着物でなく祖母、母、姉の着物のおさがりでとても着易く、お金もかかりません。洋服も、下着以外はほとんど古着です。結果として、安価で環境にも配慮できます。

自宅でのパーティ
自宅でのパーティ

1977年、葛飾区新小岩に一戸建ての中古住宅を購入し、翌年には夫の両親も移り住み同居は30年間続きました。義母の家は、満州国が出来る前から中国に渡りレンガ工場を経営していましたが、戦後全ての財産を無くしました。義母は義父が軍隊に招集されているとき、6歳の昌博、そして昌博の弟の勇と妹の幸子の二人のお骨を抱いて帰国しました。昌博はちょっとでも義母が目を離せば、中国残留孤児となっていたかもしれません。
家は床の間のほか、神棚、仏壇もある和風の環境となり、スウェーデン人を招く人数も回数も増えました。この家に住んでから来客ノートを付け始めました。内容は日付、来客者名、頂き物、料理のメニュウ、お茶を点てていましたのでその時のお菓子とお点前の種類、当日のコメント等です。再来の人にはなるべく同じ料理にならないようにする工夫や、食べられない料理の参考にしております。今は厚めの大学ノート七冊目となっており、私の宝物となりました。ノートを見ると初期に出した料理数は8種類ほどですが、途中からスウェーデンと同じく、季節の前菜、魚、肉とサラダ、デザートの4種に固定してきております。大使館のパーティやスウェーデンに参った折、とても親しげに挨拶してくれる紳士や婦人たちに「どこかでお目にかかりましたか」と尋ねると「はい、貴女の家で」と言われ、恥ずかしい思いをした事もありました。ノートを確認すると確かに招いた方々でした。
食事会には、スウェーデン人と一緒に日本人も招きました。その結果、日本とスウェーデンの違いも垣間見えました。日本人にときどきあるのが、ドタキャンや迷い子、突然の同伴者です。一番困るのはドタキャンです。我が家のホームパーティは最大8人程度ですが、料理だけでなく、その座を楽しむ会話が重要ですのでスウェーデン人ゲストに合うような話が出来る人を選びます。パーティにはいつも最低一人は日本人をお招きしていましたので、突然キャンセルされると、そのパーティの雰囲気の想定が崩れ、修正に苦慮することになります。またスウェーデン人は自宅の地図を渡せばスウェーデンからでもほとんど間違いなく到着いたします。しかし、日本人の場合は地図を渡しても、家が見つからず電話してこられる方がいらっしゃいます。また、日本の方はこちらに断りなく同伴者を連れてこられることがあり、これは自宅に初対面の人を招く習慣がないからかと思っております。

大学入学

自宅にスウェーデン人を招くことで、如何に自分達が日本の事を知らないかということも思い知らされました。
その結果、夫は東洋の哲学でもある鍼灸を学ぶため、鍼灸学校の夜学に4年間通い、鍼灸師の資格を取りました。また彼は中小企業診断士の資格も取りました。
経済的に落ち着いてきたので私はパートの仕事を止め、36歳から2年間大学の受験勉強をして38歳で大正大学に入学し4年で卒業、その後も同大学院修士課程を2年のところを4年費やし修士論文を仕上げ卒業しました。その後、2年ほど英語会話を学び、それから博士課程に通い、博士課程の科目修了は52歳、大学生活は通算14年間いたしました。
この経験で1982年当時の社会の女性に対する一面を見ました。受験する大学は日本文化の根幹に関係する神道か仏教系の大学にしていました。ある大学の面接で「大学の授業は毎日ありますが、家事などのお家の仕事は大丈夫ですか」という問いに困惑しました。この大学は落ちました。また、須永の両親、特に義母は、子供も産まないで今さら大学に行くことなど理解できませんでした。朝、「行ってまいります」という私の挨拶に義母からの返事はありませんでしたが、私はスウェーデン人を招いたパーティを含め家事はしっかりこなしていたと思います。忙しい日々で、大学のクラスメートには「洋子さん、また電車でよだれ垂らして寝てたよ」とからかわれることもありました。
私が学部生の時、夫が仕事中に倒れ、病院へ緊急搬送されました。その時、夫は『私が自立して人生を生きる筋道ができていてよかった』という気持ちを「洋子が学校に行ってくれていて良かった」という言葉で義母に伝えました。これで、義母は何だか分からないけれど、私の大学行きを受け入れたようです。
夫は仕事を半年休みましたが、西洋医学の治療では病名もはっきりしませんでした。ここで夫が学んだ東洋医学が役立ちました。鍼治療に切り替え、3年後にはスウェーデン出張に行く健康を取り戻したのです。私もアレルギーがありますが、西洋薬は飲みませんので、未病のため鍼治療は週2回40年間受けており元気です。
卒業論文を書いたことで、大学でやっと学べたと実感を持てました。学部の卒論は「方丈記」、修士論文は「能における鬼の研究―世阿弥を中心としてー」でした。
私の古典の学びで、スウェーデン人の「神棚に何故御榊があるの」「仏壇にあるお位牌は何」「源氏物語の背景は」といった質問に答えられるようになり、夫のスウェーデンでの日本についての講演にも手助けができました。また、大学での学びのお陰で、物事を組み立てて考える事や学ぶ楽しさも知りました。昌博が言った「俺と暮らしたら大学院まで行けるよ」は実現いたしました。

大正大学の学位記
 大正大学の学位記

スナガハウス開設

多くの人を招くうちに、我が家に泊まりたいと言ってくるスウェーデン人も増えました。古い2階屋でお客を泊める部屋はなく、どうしてもの時は2階のベランダに荷物を持ち出して泊めたこともありました。
我々はスウェーデンから多くのものを頂きました。少しでもお返しになればと、家を建て替えスウェーデン人用のゲストルームを作る事にしました。
1994年に3階建ての家「スナガハウス」が完成、3階にゲストルームとしてユニットバス、トイレ付の3室を設け、2階の踊り場に宿泊者はいつでも食事ができるスペースを設け、宿泊者同士がおしゃべりする場としました。玄関は一つ、1階は両親、2階は我々、3階はスウェーデン人での暮らしが始まりました。

スナガハウスでの様子
 スナガハウスでの様子

家はローンを組んで建設したので、宿泊者にも返済の一部を手伝ってもらうため、宿泊料金をもらう事としました。スウェーデンの奨学金で賄える金額設定にし、1カ月滞在の場合は1泊2,300円で朝食付きホームステイ形式とし、週に1回我々の夕食に招くようにしました。滞在期間は半年、1カ月、1週間と色々でした。宿泊者の受け入れは主にお金のない留学生としました。スウェーデンは歳をとっても学ぶシステムがあるので、色々な職種の人と会うことが出来ました。記憶に残る何人かをご紹介いたします。

ラップランドから来た人
到着翌日、浅草の三社祭に一人で出かけました。しかし、浅草から帰宅してから3日ほど全く話をしなくなったので、大変心配しました。夜に食事に誘い話を聞くと、人の多さにショックを受けてしまったとの事でした。自分はトナカイ400頭を飼っているが、まさにトナカイが自分めがけて押し寄せてきたような人の数に怖くなったとのことでした。

同年代の女性「我々はやかましい」
彼女は、「我々はやかましいのよ」と言います。何故かというとスウェーデンの女性の地位は、今や世界のトップクラスとなって、娘世代は黙っていても自分たちの望みが叶っているが、それは我々が何に対しても声を大にして要求を言い続けてきたからとの事でした。

貧乏な俳優
滞在中、時々夕食や居酒屋に招待すると、廊下や共有場所、玄関の清掃をしてくれました。バレンタインデーにはバラ1凛を大使夫人へ届け、私にはショートケーキ一つの贈り物をくれたり、お金を掛けずに心温まる交流の仕方を学びました。

ベトナム孤児から大学院生
ベトナム戦争を逃れスウェーデンに渡り、成長して国会議長の息子であるスウェーデンの男性と結婚。子供をもうけ、大学院生のときに研究調査で我が家に滞在。2歳なった子供と夫、義母も同行。夫と義母は彼女が調査をしている間のベビーシッターでした。それは2000年ごろでしたが。難民孤児だった女性を受入れたうえに、彼女の研究を家族がサポートする姿に日本との違いを見ました。

年2回新小岩で休暇を過ごす青年
スウェーデンの小さな島で夏の間だけ開業するホテルを経営する彼は、この10年間ほど毎年2回各1か月滞在します。ほとんど新小岩にいるだけで、昼は街歩き、夜は居酒屋に出かけ、新小岩の路地は私より詳しいほどです。彼の島を訪れたときに、彼の休暇は新小岩にあると思い当たりました。バルト海に面した、灯台があるだけで車もない、50人ほどがサマーハウスとして住むその島は、それは自然豊かな美しい所でした。歩いても人と会う事もなく、釣りをすれば入れ食いで大きな魚が釣れ、キノコや野イチゴも取り放題。人が沢山いて、ごみごみした路地のあるような、環境が全く異なる場所が彼にとって休息の場であると理解できました。
島には車を持ち込めず自家用車は一台もありません。あると言えば船着き場から荷物をはこぶトラクターのようなものがホテルにありました。

(一社)スウェーデン社会研究所事務局

私は2002年から2016年まで(一社)スウェーデン社会研究所(JISS)の事務局をいたしました。スナガハウスの運営もあるので、当時理事長であった松前紀男氏の打診に、自宅での事務作業が可能であればお受けすると申し上げました。当時でもパソコンが有れば仕事は可能でした。このコロナ禍期に普及したテレワークの先取りでした。
JISSは1967年、元総理大臣の大平正芳氏と東海大学を設立した松前重義氏によって、北欧の知識を日本に広げようという趣旨で設立された法人です。夫も大使館退職後はJISSの所長兼理事でしたが、のちに理事長を務めました。この組織でも、二人でスウェーデンに関する情報を少しでも皆さんに知っていただくべく努力いたしました。私としては所長である夫のサポートとして、スウェーデンに同行したことが大きな経験でもありました。北から南まで全ての大学を訪問した留学生の受入れ状況の調査や電子版スウェーデン百科事典作成のための調査を行いました。特にスウェーデンの原発や稼働が始まった原発高濃度廃棄物処理場に入れたことは強い印象に残っています。
スウェーデンは小学校から大学院まで学費は無料で、大学院博士課程は給料がでます。また日本と同じく原発の電力も使用しておりますが、異なるのは情報公開の充実度、原発のごみを処理する最終処分場も整備されていることなどです。原発の使用済み燃料の最終処分には10万年かかるといわれ、この400メートルもの地下にある高濃度廃棄物処理場建設には地元市民と30年かけて合意をしています。

調査先の一つ、Forsmark原発排水口にて
調査先の原発排水溝にて

両親の介護

夫の両親とは30年の同居でしたが、私は大家族の環境で育ったため同居に関しての抵抗はありませんでした。ただ、どこの家族にもある舅、姑との意思の違いによるトラブルは日常でした。まして、自宅に外国人が寝泊まりし、嫁は子供を産まないで大学に行く……。しかしそのようなトラブルは、時が解決する問題だと分かりました。軋轢があるのは当然ですが、夫の両親は我々の日常を見ることで、納得はしないまでも理解できたと思います。
義父の介護はほとんどありませんでしたが、義母は1年弱でしたが自宅で介護をいたしました。スウェーデンの介護ケアの書籍から得ていた知識ですが、「住み慣れたところで生活できることは、高齢の人たちにとっては人生を左右する程大切で、人を移動させる、特に高齢者にとって新しい環境は大きなリスクを伴う」ということに直面したことがあります。91歳の義母は入院の1週間前まで一人で歌舞伎に出かける状態であったのが、入院2日目には自分の名前も言えない、字も書けない、息子の名前も言えないような状況になりました。環境変化による認知症の発症と考え、我々はすぐに母を退院させ、自宅に連れ帰りました。家に帰ると義母は自分のベットに座り、手を合わせてやっと「あいがと、あいがと」と言えました。掛かりつけ医が家のすぐ傍であったのも功を奏して、すぐ介護シフトを組みました。母が最初に名前を呼んだのは、息子でも娘でもなく嫁である私でした。人間の本姓を見た気がいたします。羞恥心があるので、おしもの世話はなるべくヘルパーさんにお願いしました。これもスウェーデンの介護知識から学びましたが、私は特にメンタルサポート役で、毎朝第一番に聞くのは「お母さん、何が食べたい?」でした。そして、彼女の傍に座っている。テーブルの上には字は書けないが紙と鉛筆はおいておきました。義母は問いかけには何も応えず、私から「お魚、お肉、卵」などと続け、それに対する反応をみて食事をつくり、夜の食事は外からの配達でヘルパーさんが対応してくれておりました。時には2時間ぐらい彼女の傍らに座っていました。ある日、突然鉛筆を持ち紙に「鮭」という漢字をすらすら書きました。私は驚いたのと同時にスウェーデンの本に書かれていた通りと理解できました。それは認知症の人はすべて健常者と同じように理解しているが、表現する場所に鍵がかかっていて表現できないという例でした。いくつもの引出しに鍵がかかっていて、時々その鍵が開くという表現はとても良く理解できました。また、介護をしたお陰で、認知症になった人が得も言われぬ、美しい童女のような笑顔を見せてくれることを知りました。その笑顔は、自分の要求が私に伝わった時に表れます。人は必ず死にます。死に行く最終章故に見ることのできる笑顔があるのだと思っております。
義母が、2階にいる私たちを呼ぶために階段下に座り込んでいることがありました。そこに宿泊者のスウェーデン人が帰宅したのです。もちろん1階に母がいることを告知はしてありましたが、何のとまどいもなく、普通に義母に対応する彼らの姿勢に、スウェーデン社会が誰に対しても対等であるということを実感できました。

終わりに

2015年、昌博は1年の闘病を得て食道がんで亡くなりました。彼とは45年の生活でしたが、忙しく楽しい、充実した時間でした。亡くなる2日前まで自己を律しており、「楽しくね」が私への最後の言葉でした。亡くなってからも、いつも一緒にいる気配を感じております。
私は72歳でしたので、JISSの事務局を退き、スナガハウスも閉じ、家を売却、生まれ育った実家や私の後見人の姪が住む我孫子市に小さなマンションを求め、移住しました。その事務処理を1年間致しました。もう一つ大きな事務処理は須永の2人の子供への遺産相続でした。全く交流がなかったので司法書士にお願いして居場所を探してもらいました。この時、日本の法制度はいかに血脈を大切にするか、またスウェーデンにはない司法書士という職業の職域が理解できました。2人の子供たちに手紙を出し、税理士に1センチにもなる書類を用意してもらい、遺留分の財産をお渡しすることが出来ました。
新しい住まいは13階建てマンションの11階で、リビングの前は里山、その向こうにスカイツリーと富士山が見えます。反対の玄関側からは2キロほど離れたところに、子供のころセミを取りに木登りした実家のヒマラヤスギが見えます。
こちらに移ってからも、私の台所からの発信は続けております。以前から交流のある都内の方やスナガハウスの常駐者の何人かは日本に来ると訪れてくれます。また、地元の方との繋がりを開拓すべく英語クラブにはいり、友人も出来、月1回の食事会をコロナの状況を見ながら行っております。
スウェーデンを紹介する動きも微力ながら続けております。一つは福島の原発事故後に立上げたいわき市にある「元気の素カンパニー以和貴」で、2年ほど毎月1回車座のお話会をさせて頂き、今年は川越のローカルラジオでおしゃべりをさせて頂きました。
コロナのお陰で便利なことも生まれました。スウェーデンのセミナーや日本の古代史の学習にZOOMで参加、家にいながら勉強が出来ます。近くの手賀沼を毎日5キロ歩き、カワセミや他の鳥たち、時にはイタチなどに会うのもとても楽しみなこの頃です。
この執筆を頂いたことで、いつも昌博が私を見守っていると実感する出来事がありました。この「女性100名山」の編集長をしておられる岸上祐子氏が、夫の最後の仕事となった『電子版スウェーデン百科事典』の一部を彼の死後、出版してくださった出版社・(株)海象社の方と分かりました。
最後にこの執筆にお声をお掛けくださったJKSKの理事・藤原恵美氏に感謝申し上げます。お陰で私の一生を総括することができました。