上山 良子(うえやま りょうこ)

ランドスケープ・アーキテクト/長岡造形大学名誉教授・前学長

上山 良子
  • 東京生まれ。
  • ’62上智大学英語学科卒。
  • ’78カリフォルニア大学大学院環境デザイン学部ランドスケープアーキテクチャー学科修了(MLA)。CHNMB(旧ローレンス・ハルプリン事務所)にてデザイナーとして経験を積み帰国。
  • ’82 上山良子ランドスケープデザイン事務所設立。
  • ’96「長岡平和の森公園」AACA賞(日本建築美術工芸協会賞)
  • ’02「芝さつまの道」グッドデザイン賞
  • ’04 「長崎水辺の森公園」グッドデザイン金賞(環長崎港アーバンデザイン会議)
  • ’06「きたまちしましま公園」グッドデザイン賞,AACA賞入賞
  • ’06「長崎水辺の森公園」土木学会デザイン賞優秀賞(環長崎港アーバンデザイン会議)他
  • 著書:LANDSCAPE DESIGN;大地の声に耳を傾ける 美術出版社 ’07

はじめに

「あるモノはなくなる」それが私の原点。昭和20年の東京大空襲。私達一家は2度の空襲で3軒の家を失い、最後は3月10日。花火の炸裂するような美しい光の夜。その真赤な火の粉の降り注ぐ焼夷弾の砲撃の中を潜って逃げ、奇跡的に命だけは助かったのです。東京だけで延べ10万人の市民が犠牲になったのでした。この命は誰かに生かされているにちがいないと、後年あるときふっと気がつきました。
「人のために何が出来るか?」それからの私の信条です。この30年、生業はランドスケープ・アーキテクト、すなわち「風景をつくる仕事師」です。
しかし、それってどんな仕事?と皆さんは思われるのでは?この国ではまだ市民権がないのが現状です。この小さな国土にとっては最も大切な技術の一つ、「人のために、資源である土地を最適にデザインする」職域です。
まちづくりにも、住宅づくりにも土地の持っている様々な条件をきちっと評価し、そこに相応しいデザインをするためには「作法」があります。これを書いている最中も、広島の大雨による地辷りのニュースが流れ悲痛な思いを拭われません。本来住宅が建てられるべきところではない場所に建てられていたことは明白です。かつて日本人には土地を最適に利用する作法が身についていたはずです。いつからこの文化的DNAは失われてしまい、「自然と上手に共生した風景」は失われてしまったのでしょうか?
それを求めてこの分野に辿り着くまでには想像を絶する回り道をしてきました。

回り道その1:デザイナーへの夢

デザイナーになりたいという高校時代の夢は「英語を勉強しないなら大学へは行かせない。絵は趣味にすればいい」という父の偏見によって打ち砕かれ、嫌いな英語を専攻しなくてはならなかったのです。英語は手段であるべきと思い、英語そのものを学ぶことに身が入らなかった上智大学3年の秋、ある展覧会へ行ったことが人生を変えることになります。西洋美術館での建築家ル・コルビュジエの回顧展です。20世紀の巨匠ル・コルビジェの都市計画から建築、インテリア、家具に至るまでその想像力の幅の広さに感動し、「デザインとはこんなに広い領域であったのか」と今まで自分は何をしていたのであろうと反省。デザインの世界こそ、私が目指していた道であったのだと、翌日からデザインに向けての猛アタックがはじまったのです。
人は好きなことを見つけると、想像を超えるパワーが出てくるものです。「ドイツのウルム造形大学から帰国された工業デザイナーの清水千之助氏」の記事を読んで、すぐセイコー社へ面会に行き、個人教授をお願いしたのです。週一で「課題」を出しては批評してくださった清水氏のデザイン教育への情熱は、後に東京造形大学の教授になられ、日本のデザイン教育に貢献されたことがその証しです。今考えると奇跡の出会いでした。夜はドイツ語の勉強。デザインの分野では、当時世界で最も理想的なデザイン教育といわれていたウルム造形大学を目指すのに迷いはありませんでした。しかし、世の中そう甘くは行きません。入学準備を終えて、いざ出発という時になって、父の末期癌が発覚したのです。あと一年半の命と聞かされました。勿論留学は取りやめ。夢はまたもや挫折。

回り道その2:デザインの教育の場とは?

日本に居るという条件で、幸運にも千葉大学の工学部工業意匠科の研究室の助手補として、又聴講生として授業を受ける事になり、いよいよデザインの勉強ができると心はときめき、新たな生活をスタートさせました。世界を見据えたデザインの講義をされる小池新二教授との出会いは後にアメリカへ行く機会を頂くことになるとは当時は思っても見ませんでした。しかし、一方で、工学部のデザイン専攻の頭脳明晰の学生たちの考え方の狭さに驚かされました。深い人類愛を背景に、この国に骨を埋める覚悟で、人生をかけて教育に勤しむ神父の先生方から学ぶ幅広いグローバルで自由な雰囲気に慣れていた私にとっては違和感を感じ、デザインの教育はもっと広い視野がいるのではと思うようになっていきました。
一年半の壮絶な闘病生活の後、父は他界。日本に居る条件からは開放されましたが、スネはもうありません。ある日、ふと買ったJapan Timesのなかにスカンジナビア航空がステュワデスを5年ぶりに募集するという記事。当時北欧のデザインに傾倒していた私は、2ヶ月間の北欧でのトレーニングという条件に目が釘付けになりました。ものは試しと受けてみたのが、偶然にも狭き門をくぐりぬけてしまったのは奇跡に近かったと思います。美人とは程遠い、背もそこそこの自分のことをすっかり忘れての応募でしたので。心ははや北欧へ。

回り道その3:世界を見てから

憧れの国に行けるという夢が直ぐ目の前となったとき、デザインの勉強が出来る状況を捨てて行くことが本当にいいのかという疑問を持ちました。その時、アルバイトをしていた建築事務所の所長は、ル・コルビジェの最後の弟子だった建築家、村田豊氏。「世界を見てからデザイナーになっても遅くはない。こういうチャンスは逃すな」との忠告。その頃は海外へ自由に行く事の出来ない社会状況でした。悩んだ末に千葉大を後にし、スカンジナビア航空を選んだのです。
はじめて体験するストックホルムでの訓練の毎日はあらゆることが新鮮でした。しかし、究極のサービス業であることをすっかり忘れていた私は仲間から散々動機の不純をたしなめられました。この2ヶ月のためにこの仕事を選んだ人は勿論いませんでした。当時は皆憧れてこの仕事に着いた時代でした。というのも女性が海外へ行ける仕事は限られていたことも確かです。
静かな北欧の国々の街の素晴らしさ。白夜に近かったこともあり、夕方から夜中までの光の感覚は北欧独特の世界を強烈に印象づけられた風景でした。久し振りの日本人の採用でしたため、新人5人はどこへ行っても歓迎モード。ついに着物で飛行機の前に立った写真が新聞の一面に載ったりと、今では考えられない時代です。
厳しい訓練の後、先ず南回りでローマが終着点の初仕事がはじまりました。SASでは北欧3国の乗組員の中に日本人は常に一人で乗ります。南回りは3週間かかり、バンコック、カラチに3日または4日滞在し、ローマではコペンハーゲンへ飛んで帰ってくるフライト待ちの5日間の「ローマの休日」。今から考えるとなんとも優雅な時代でした。
当時は情報の無い時代。全く知らなかった国々とその文化に触れることは思いもかけず貴重な体験となりました。タイの文化や生活、パキスタンという異質の文化、宗教を持つ砂漠の国などは予想もしていなかった経験でした。
ローマの休日は勿論、小池新二教授の教科書であった「時間・空間・建築」S.ギーデオン著、がそのままガイドブックになり、街歩きはそれこそ生きたデザインの勉強でした。2,000年前から連綿と継承されてきた人の営みと空間の関わりの美しさに魅了され、朝から夜まで歴史書と首っ引きで歩いていました。
北回りはアンカレッジ経由で2週間かけてコペンハーゲンまで往復。北欧デザインを堪能する生活。デザインを国の政策として勝負する北欧の国々に学ぶことは多かったのです。SASで働く仲間達が、この仕事を若いうちに外国を経験する機会として考えていて、将来の夢を各自持っていることには勇気づけられました。何十年も後にスウェーデンの建築家協会の会長としてある国際会議で出会った当時のクルーの一人もいたのです。北欧の女性の自立意識の高さに感化され、又社会的な立場も非常に高いことには感動しました。日常の仕事の中で彼女たちに教えられ、鍛えられたことも確かです。
高度1万メートルから眺める美しい地球の風景。この大地を誰がデザインしているのか?と漠然と思うようになっていきました。神の手の場合もあり、又人間の手の場合もある「地球の表面を刻む」という仕事とは?どういう職域の人が携わるのであろうか?

(つづく)