上山 良子(うえやま りょうこ)

ランドスケープ・アーキテクト/長岡造形大学名誉教授・前学長

上山 良子
  • 東京生まれ。
  • ’62上智大学英語学科卒。
  • ’78カリフォルニア大学大学院環境デザイン学部ランドスケープアーキテクチャー学科修了(MLA)。CHNMB(旧ローレンス・ハルプリン事務所)にてデザイナーとして経験を積み帰国。
  • ’82 上山良子ランドスケープデザイン事務所設立。
  • ’96「長岡平和の森公園」AACA賞(日本建築美術工芸協会賞)
  • ’02「芝さつまの道」グッドデザイン賞
  • ’04 「長崎水辺の森公園」グッドデザイン金賞(環長崎港アーバンデザイン会議)
  • ’06「きたまちしましま公園」グッドデザイン賞,AACA賞入賞
  • ’06「長崎水辺の森公園」土木学会デザイン賞優秀賞(環長崎港アーバンデザイン会議)他
  • 著書:LANDSCAPE DESIGN;大地の声に耳を傾ける 美術出版社 ’07

アメリカでデザイナーとして働き始める

大学院の修論を準備しつつも、このままでは多分時間が間に合わないと思う時期になり、就職をすることを先行させました。と言いますのも、この国では最高賞を取ることが最も有利に働きます。又成績は一番で卒業することになりましたので、アルバイト先であったL.ハルプリン事務所からのコールをうけていました。この時期に正式社員になることを選び、旧L.ハルプリン事務所で、4人の取締役が受け継いだCHNMBアーバンデザイン/LA事務所へデザイナーとして採用されました。

朝バークレーから愛車のビートルズでBay Bridge を渡りS.F.へ向かうとき、一人日本を離れ、背水の陣で、自分の求めた分野を極めることが出来、最高の事務所で仕事ができる立場を得たことに心から嬉しく思ったものです。もう30代の後半になっていました。このまま永住する気でいました。

アメリカの事務所は厳しいモノでした。20人前後の事務所でしたが、デザイナーとして採用されている者は当時は2人、あとは取締役の2人のデザイナーです。学生時代にアルバイトとして誘ってくれたスタッフがもう一人のデザイナーでしたが、新人の私はもう彼のライバルです。新人が一人で抱えて苦労していてもいっさい手は出しません。孤軍奮闘とはアメリカの事務所で働くときの覚悟すべきことです。自分の力をフルに生かして成果を出さねば、すぐにでも待っている人に仕事は渡ってしまうのです。プロジェクト毎に必要な専門家と組むことが出来るこの事務所のやり方は理想的でした。質にこだわり、常に新しいことに挑むことが要求されつつ「場づくり」に挑戦する旧ハルプリン事務所は活気に溢れていました。

幸い取締役のデザイナーの中に、日系三世のSat. ニシタ氏が多くのプロジェクトを私に任せてくださったことは今でも感謝しています。彼は私がアメリカで生涯LAとして活躍することを期待して、あらゆることに後押し下さったにも関わらず、日本に帰国って来てしまい、今でも申し訳なく思っています。

日本へ帰るべきか否かの葛藤の日々

UCBの修士取得は論文を提出した‘81年。その頃になるとこの国の政治の理不尽な面も見えてきました。「風景を創る専門」の学問を求めて来たのは、日本の風景に対して何か出来ないかという動機でしたから、このままこの広大な大陸で西や東に飛んで、風景を作り続けていくことは本末転倒しているのではないかと思うようになっていました。すでに渡米して7年を経過、しかも一度も日本には帰っていませんでした。
上司のS.ニシタ はこれから世に出していきたい!この国で有名にするからと帰国を引き止めたのでした。有名などは私の辞書にはないことで、世のため、人のために、そこしか無い「場づくり」をすること。そのためには母国でするべきではないか?その頃は「実力さえあれば、あるいは、いい仕事さえすれば」男女の差なく認められる社会にどっぷりつかっていたため、日本の状況は全く分かっていなかったのです。兎に角一度帰ってみようと、7年ぶりに日本の土を踏んだのでした。

実は帰国の決心にはもう一つ理由があったのです。母が一人で生活していたことでした。妹は相方がアフリカのスーダン、カタール、と商社の長を務めていたため海外暮らし、私が米国に永住することはいかがなものかと悩んでいました。もし母のことがなければ、多分日本で仕事という選択肢はなかったと今でも思っています。

7年ぶりに帰ってみると日本は高度成長の真只中、風景とか環境という概念は以前にもまして二の次にされた開発のオンパレードです。特に東京の郊外の劣悪な風景を目にして、日本人の中にかつてあった「自然との融合」「文脈的に建築をつくる」というあの「文化的DNA」は一体何処へ行ってしまったのか?と2度目のカルチャーショックが起きたのでした。義侠心が湧き上がり、何とかしなくてはと思ってしまい、大きな間違いの決断を下すことになったのです。帰国後に待っていた恐ろしいほどの困難をそのときの私は知る由もなかったのです。これが世に言うCaliボケだったということ。

独立の準備をして、帰米しました。先ずL.ハルプリン先生に相談。日本人であるからには日本に貢献しなさいとの一言。丁度彼は母国イスラエルの広場を設計していた時期でした。S.ニシタと話し合い、斥候の役目を日本でするということを条件に日本で独立することを認めてもらい, 帰国しました。後年S.ニシタに森ビルのアークヒルズのプロジェクトを紹介する事ができ、約束を果たすことが出来ました。

母国での再出発で受けた挫折感

かくて7年半に渡る米国でのランドスケープ・アーキテクトへの学業を経て様々な仕事体験をしてはいてもまだまだこれからという時、日本への帰国を果たすことになったのでした。しかし、この分野は仕事をすればするほどその深さに驚かされる分野です。一生勉強であるということを胸に、母国での仕事で頑張ろうと張り切って帰って来たのでした。

しかし、帰国間もないある日のこと、建設省(現在の国交省)から呼ばれて「あなたは日本で東大も、農大も、千葉大の造園科も出ているわけでないので、仕事はあげられません。しかし、教育をしてもらいたい」と言われ、愕然としました。そういう社会へ帰って来たのか。役人への教育をさせられました。「ランドスケープデザインとは何か?」という講演会を数十回もあちこちでするのみで仕事には繋がらなかったのです。先ず、世の中にランドスケープという分野が理解されなければ勿論仕事にはなりません。市井の人がわかることが大切と。教育から始めたわけですが、微力のため30年経ったいまだに一般の人に知られていないことも事実です。

ランドスケープ・アーキテクチャーの必要性を社会が認識している国のなかで、一流の事務所で仕事をしてきたことが仇となり、それまで当たり前と思っていたこととのギャップは大きいものでした。「いい仕事が出来さえすれば認められる」という社会ではない。無謀にも独立して事務所を構えてしまったのでした。「アメリカへ帰れ」とはっきりとおっしゃって下さる造園界の大御所もいらしたのです。しかし、建築家とコラボレーションでの仕事で一つ一つ実績を作っていくことが出来るようになっていきました。丁度科学万博の時で最初の仕事は東門広場の卵のオブジェの設計で、「宇宙卵かなし」と新聞種になってしまったのでした。その話はまたの機会に。(つづく)